浦山桐郎と相生
私は父親と話したことがほとんどなかった。50才を過ぎてから相生について調べ始めた頃、浦山桐郎の話をしていると、横から父親が「キリオのことか」と言う。私は驚いた。
「浦山桐郎を知っているんか?」
「戦争中、うちの店でよく暇つぶしをしていたな」
年齢は父親の方が少し上であるが、年下の桐郎と仲がよかったらしい。
「キリオは、けんかは強くなかったが、負けても文句を言い続けていたな」「映画を作ったからと招待券を送ってきたので見にいってやった。キリオが作ったんやから、あんなもんやろ」
桐郎は、1962年、『キューポラのある街』で映画監督としてデビュー、吉永小百合・和泉雅子らを育て「女優育ての名手」とよばれた。『夏草の道』は桐郎の生涯を描いた小説である。田山力哉は、早船ちよの小説『キューポラのある街』と桐郎の出会いをこのように描く。
読みながら彼は、かって幼い頃、相生の播磨造船所にキューポラが二本立っていたのを思い出していた。・・思いもかけず朝鮮人が多く出てくる小説で、彼は相生小学校時代の旧友を懐かしく思い出しながら読んでいた。ふとジュンの姿に重なるように、あの崔さんのイメージがパッと脳裏に閃いた。
映画が完成すると、桐郎は旭館の一番後ろで郷里の人々の反応を確かめたという。桐郎が育ったのは、社員が住む弁天町の社宅である。その周囲には、職工の社宅・商店街・遊郭・半島から渡ってきた人々の集落・造船所の病院など造船所とともに開けた新興の街、そして、地下(じげ)の漁師町があった。近代日本の縮図のような地域で桐郎は育ったのである。
桐郎の父、浦山貢(みつぐ)は「大学に行け、それも東大に」と桐郎に言っていたという。映画では、職工の娘ジュンは定時制高校に進学することになるのだが、私は「桐郎監督はどういう立場に立っているのだろう」と映画を見ながら考えていた。
相生に貢の碑はあるが桐郎の碑はない。「浦山桐郎の碑は何で作られないんだろう」と尋ねると、父親は少し考えて「地下(じげ)の人間やないからな」と答えた。私は相生で育ったが「地下」という言葉は始めてだった。
数年後、播磨病院の病室で、父親が「キリオはどうしてるんや」と尋ねるので、「前に亡くなったらしい」と答えると「そうか」と言った。それが、父親との最後の会話となった。
おことわり
この文章は文献を参照して書いたものではなく、ライターの個人的経験をもとにしていますので、他の文章とタッチが異なっています。
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