縄文・弥生の石器・土器、古墳の発掘物、古代の信仰、秦河勝の伝承・皇室領矢野荘の成立と地頭海老名氏の進出等を展示しています。
東寺領矢野荘と悪党、感状山城、赤穂藩と相生、旗本浅野陣屋、相生の窯業等を展示しています。
相生市は平地には恵まれませんが、古山陽道・西国街道・山陽本線・山陽新幹線・山陽高速道路という主要交通路がすべて通過する交通の要衝です。
こうした地形の故に、古代から渡来人・僧侶・武将・産業資本家・造船マンなどさまざまな人々がこの地を訪れました。そして、地元の人々と外来の人々の協働によって、この地に二度にわたり統一体が生まれました。中世の矢野荘と現代の相生市です。
塚森古墳は那波野の水田のなかにある直径40米、5世紀後半築造の前方後円墳です。明治時代、山陽鉄道の線路敷きのために前方部の土を削ったので、円墳の様に見えます。周囲の濠は埋められて水田になっています。
那波野古墳は7世紀半ばに築造された直径30米の円墳です。石室には巨大な石を使っており、被葬者は地方の有力者で中央と親密な関係を持っていた人物であると考えられています。
若狭野古墳は7世紀に築造された一片15米の方墳で三段に築かれています。横穴式石室の玄室そのものが石棺の役割をはたしており、古墳時代の終末期の特徴を持っています。
神代、この地の人々は矢野川と栗栖川(くりすがわ)の分水嶺「浄原(じょうはら)」の高座石を神として いました。磐座神社(いわくらじんじゃ)は巨石信仰を受け継ぎ、中世矢野荘の総鎮守として崇敬されていました。紅葉の美しい神社です。
瓜生の羅漢渓谷も巨石信仰の流れにあります。岩窟には釈迦如来を中心に十六羅漢の石仏が祀られています。羅漢石仏は恵便が彫ったという伝承があります。
学術的には、室町時代の作品とされています。
相生は大和文化圏と吉備文化圏の端境(はざかい)に位置します。都から須磨までが畿内 、そして播磨の揖保川までが大和文化圏です。播磨平野から一山越えて相生に来ると異境が始まります。
相生は都から逃れた人や旅立つ人が初めに訪れる地でした。
中世播磨の地誌「峰相記(みねあいき)」は、百済から来た僧、恵便(えべん)・恵聡(えそう)が排仏派の 物部氏に憎まれて播磨へ流され、矢野の奥に草庵を結んで居住したと伝えています。
恵便が彫ったと伝えられてきた羅漢の石仏です。
金春禅竹の「明宿集」は、秦河勝が相生湾に漂着したと記します。
業ヲ子孫ニ譲リテ、世ヲ背(そむ)キ、空舟(うつぼふね)ニ乗リ、西海ニ浮カビ給イシガ、播磨ノ国南波(なは)尺師ノ浦ニ寄ル。蜑人(あまひと)舟ヲ上ゲテ見ルニ、化シテ神トナリ給フ。
相生市の最高峰、三濃山に求福教寺(ぐふくきょうじ)があります。貞観6年(864)、赤穂郡 司秦内麻呂が秦河勝を偲んで創建しました。源義家の保護を受けて「三濃千坊」といわれるほど栄えましたが、保元・平治の乱の焼き討ちによって衰えました。
求福教寺は本堂に千手観音をお祀りし、左右に大避神社・弁天社、後方に 山王神社を配置しています。これは、神仏習合・本地垂迹という日本古来の思想を受け継いでいるからです。昭和3年の本開帳にあたり、福田眉仙は「往古求福教寺壮観図」を描き故郷の人々とともに八百年前の求福教寺を追憶しました。
三濃山には、秦河勝が狩りに来たときお供の犬が河勝を狙う大蛇と闘って命を落としたという三本卒塔婆(さんぼんそとば)伝説があり、犬塚とよばれる中世の五輪塔が残っています。
秦河勝が愛用したといわれる茶釜。湯を沸かすとチリンチリンと音がするところから鳴鑵子(かんす)と呼ばれていましたが、sc眉仙が文福茶釜と名づけました。鑵子は茶の湯に用いる茶釜のことです。
承保2年(1075)、赤穂郡司秦為辰(ためとき)は久富保の開発を国衙に申 請しました。久富保は播磨守藤原顕季を経て、孫娘の美福門院(近衛天皇の母)に受け継がれます。保延3年(1137)、美福門院は矢野荘の立券を完了し、皇室領矢野荘が成立しました。
矢野荘の中心部であった地域に、条里制の遺構が保存されています。
圃場整理をしますと、水田は正確な長方形になります。畔が曲がっているところが条里制の遺構です。
承久3年(1221)、後鳥羽上皇は鎌倉幕府打倒の兵を挙げますが敗北します。上皇方についた武士の所領は没収され、東国武士が西国へ進出してきます。 矢野荘では下司であった惟宗氏が上皇方について敗れ、御家人の海老名氏と寺田氏が勢力を広げました。
相模国から矢野荘に地頭として赴任した海老名氏は、大島に城を構え、那波八幡神社・旭弁天社・相生天満神社を創建しました。また、相模生まれから「相生」の文字をとり「おお」の地名に当てました。那波八幡神社は鶴ヶ岡八幡宮を勧請しています。
海老名氏が陣中で手に入れた菅原道真公の木像を祀ったことが始まりとされています。
海老名氏が海中の島に江ノ島弁才天を勧請したお宮です。大正時代の埋立で地続きになり、造船所の社宅街の人々が新しい町の鎮守として社殿を建てました。
地頭が年貢を滞納するようになりましたので、永仁6年(1298)に下地中分が行われ、矢野荘例名は地頭方と領家方に分割されました。そして、正和2年(1313)、例名(れいみょう)が後宇多上皇から東寺に寄進されます。別名(べつみょう)は、正安2年(1300)、亀山上皇から南禅寺に寄進されました。
矢野荘の本家が東寺に交代した機会をとらえて、寺田法念は矢野荘での勢力拡大を図りました。寺田法念は南禅寺の支配地へも乱入します。支配者はこのように秩序を破壊する行動を取る人々を「悪党」と呼びました。
一方、東寺も矢野荘での支配権を強化しようとしていました。東寺と寺田法念は対立し、文保3年(1319)と建武2年(1335)の二度にわたり武力衝突を引き起こします。建武2年(1335)の戦いで、東寺は大避殿山に山城を築き何昼夜もの激戦によって寺田一族に勝利しました。
「播磨古城記」「播磨鏡」によると、建武3年(1336)、九州に敗走した足利尊氏を追って、新田義貞が矢野荘に軍を進めました。赤松則祐は感状山城を守って新田勢の進軍をくいとめ、この功績によって足利尊氏から感状をもらいました。
矢野荘の産物は那波の市で取引され、年貢は銭で京都に送られました。しかし、1430年代になると年貢の未進が増え始めます。康正2年(1456)、東寺は請負代官制を導入しました。代官をたびたび交代させましたが、年貢の納入は減り続け、大永7年(1527)を最後に年貢納入の記録が途絶えます。
東寺が支配権を失った後、天正4年(1576)、矢野荘は宇喜多氏の支配下にはいります。宇喜多秀家は五大老として豊臣政権を支えますが、関ヶ原の戦いで敗北しました。宇喜多氏が断絶しましたので史料の多くは失われましたが「岡城記」という史料が残っています。「岡城記」は、岡氏は文永の役で戦功をあげ下土井城を築いて国人に成長、宇喜多氏重臣となったと伝えています。
関ヶ原の戦いの後、池田輝政が播磨の領主となります。輝政は姫路築城の費用をまかなうため検地を実施して年貢の増徴を図りました。このとき、播磨各地の土着領主層は池田家の家臣となるか、農民・商人・僧侶など武士以外の身分になるかの選択を迫られました。海老名氏は農民身分となり村役人の道を歩みます。
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豊臣氏が滅亡すると、元和3年(1617)、幕府は外様の池田氏を移し姫路城に譜代を配置します。正保2年(1645)、赤穂城も池田氏から浅野氏に交替し、それから半世紀間、赤穂郡は浅野赤穂藩の支配地になりました。
元禄14年(1701)、赤穂藩浅野家改易事件が起こります。幕府は浅野赤穂藩領5万石を没収した後、北半分を幕府領とし、南半分を外様の森氏の赤穂藩2万石としました。この結果、旧矢野荘の北部は幕府の勢力圏として上郡にあった幕府出先の統治下に入り、南部は森赤穂藩領として赤穂の統治下に入りました。
また、浅野分家は3000石の旗本として若狭野に陣屋を構えました。
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旧矢野荘北部は、幕府の勢力圏のなかで、時代によって幕府領・小田原藩領・尼崎藩領・安志藩領などが入り混じった状態が続きました。
元禄16年(1703)の地震で小田原城が天守倒壊などの甚大な被害を受けると、宝永5年(1708)幕府は修理費用を援助するため、赤穂郡北部の55ヶ村を小田原藩領にしました。
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延享4年(1747)、幕府領に戻り、その後一部が大坂城代領になります。そして、明和6年(1769)、幕府は尼崎藩から兵庫や西宮を取り上げる代わりに赤穂郡北部の31ヶ村を尼崎藩領にしました。
支配者が転々とするうえ、隣接する村とも支配者が異なるという状況で、地域を一体として長期的展望に立って運営するという視点はまったく欠如しています。
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浅野長直は長友に赤穂本家を継がせ、長恒に3千石を分知しました。元禄14年(1701)、赤穂藩が改易され、翌年、大石良雄らが吉良邸に討ち入りますが、浅野分家は旗本として幕末まで続きました。陣屋跡には、須賀神社・稲荷社・薬師堂が建てられています。
浅野長恒は赤穂本家に年貢政事一切を世話になっていたため陣屋は名目だけの小規模なものでしたが、赤穂本家が断絶してから陣屋を拡張しました。現在、陣屋時代の建物として札座が残り「法界庵」と呼ばれています。
室町時代、像高86.5cm、桧材の寄せ木造り。
もと下土井の荒神社にあったものと伝えられていますが、明治初年から旧浅野陣屋跡に建つ稲荷神社に安置されていました。
角ばった面長な顔や胴長短足の姿から室町時代後期の作と考えられます。
旗本浅野家初代浅野長恒のものと伝えられていますが、幕末の慶応4年(1868)、江戸から若狭野の陣屋へ移住した七代目長発(ながあきら)のものと考えられています。
明治維新によって幕藩体制が崩壊し、旧幕府勢力圏に若狭野村・矢野村、旧赤穂藩領に相生(おう)村・那波村が成立します。昭和に入り播磨造船所の興隆とともに4つの村は結びつきを強め、昭和29年(1954)、現在の市域を持つ相生市が発足しました。中世矢野荘は一つの統治体として蘇えり、相生市という地域主権のもとで経営されています。
播磨国には、姫路・明石・龍野・赤穂・加古川・高砂・三木などの市があります。このうち、姫路・明石・龍野・赤穂・高砂・三木は、池田輝政が居城・支城をおいた七つの拠点から成長してきました(もう一つの支城は平福)。加古川は江戸時代の宿場町から発達しました。
このように江戸時代の町から連続して発達してきた都市と異なり、相生は近代百年の工業化の波に乗って成長した小都市です。私たちの相生は、江戸時代に中核となる城下町や宿場町がなかったにもかかわらず戦時中までに市制を施行した播磨国で唯一の地域なのです。
本館一階は「播磨造船所とともに歩んだ相生」をテーマとし、明治・大正・昭和の先人たちの歩みを展示しています。
〒678-0053
兵庫県相生市那波南本町11-1
TEL 0791-23-2961
FAX 0791-23-2961