郷土の偉人の部屋では、福田眉仙・水守亀之助・佐多稲子・浦山貢・浦山桐郎の写真や愛用品・作品を展示しています。
今回は、常設の5人の他に、郷土史家の小林楓村氏を平成27年3月末までの予定で紹介しています。
矢野町森に生まれた郷土史家。代表的なものには「播磨」等があり、相生市に関する文献を数多く残している。
当時は、コピー機などなく複写をするには資料を写本するしかありませんでした。小林氏の残した写本の中には「岡城記」などがあります。
なお、「播磨」の復刻版は、相生市立図書館で郷土資料として保管していますので、ご覧になりたい方は図書館でご覧ください。
福田眉仙は、1875年(M08)、 矢野町瓜生に生まれました。揖保の宮田其渓に絵の手ほどきを受け、 17才で京都画壇の久保田米僊に人物画を学びます。続いて、東京美術学校で橋本雅邦に師事、岡倉天心から中国へ渡るよう勧められました。
※△が福田眉仙
1909年(M42)、南画復興をめざし中国に渡り三年をかけて中国全土を踏破、峨眉山の壮観に感じ「眉仙」を號とします。兄弟子横山大観らが抽象に向かったのに対し、眉仙は写生を追究し、1917年(T06)、関西に転居、芦屋六麓荘に長虹画窟を構えました。
福田眉仙の絵画
水守亀之助は、1886年(M19)、下土井の医家に生まれました。友人の三木露風を頼って上京、田山花袋から写実を学びます。1919年(T08)、父を描いた「帰れる父」、祖母を描いた「小さな菜畑」で文壇に地位を確立しました。
水守亀之助の文学
大正時代、作家として活躍する一方、「新潮」の編集に携わり新潮三羽烏といわれます。1937年(S12)には、文化雑誌「野火」を創刊し地方文化の育成に取り組みました。
佐多稲子は播磨造船所で働く父によばれて来相、青春時代を過ごします。当時、相生は活気に溢れ、稲子は「新しく町の出来てゆく過程は不思議みたいであった」と表現しています。
佐多稲子が語る「素足の娘」
「素足の娘」をレリーフにした文学碑の除幕式に訪れた佐多稲子。出迎えた人々と市内を歩き、長女が生まれた社宅を訪れました。昭和という時代を生き抜いた女性作家は「相生は故里なつかしさに似た思いのかかる町なのである」と語っています。
浦山貢は播磨造船所に勤務するかたわら、自由律俳句や短歌を作り、西播磨の文芸の中心として短歌雑誌「飛魚」を相生市歌を作詞しました。左端が浦山貢、膝に抱かれているのは長男の浦山桐郎。
浦山桐郎は「キューポラのある街」で映画監督デビュー、吉永小百合や和泉雅子・小林トシエらを育て「女優育ての名手」といわれました。故郷を愛し相生湾を「母親の子宮のように見える」と評しました。
浦山桐郎と相生
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