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□相生市の文化・歴史

佐多稲子文学碑
那波南本町 中央公園
ブロンズレリーフは洋画家安岡明夫氏。  文は稲子が 『素足の娘』 より自選、自筆である。
現地案内板
 「ホ、素足のむすめがゆくぞい」と、囁くのを聞いた。
 この緯名は、何か私にいじらしく思われた。  
『素足の娘』より佐多稲子
 『素足の娘』は、佐多稲子が初めて書き下した長編小説として、昭和十五年(1940)新潮社より刊行され、ベストセラーとなった作品である。この作品は稲子十四歳から十六歳(大正七〜九年)にかけて、当時播磨造船所に勤めていた父のもとでの生活を、自伝的要素を加えて書いている。
 思春期を迎えた少女が、いろんな憬れや希望を抱きながら、いじらしいほどけなげで、ひたむきに生きようとする姿を措いた青春文学は、佐多文学の中でも特異な位置にはいるものだ。
 第一次大戦時の活気に満ちた町と人々の動きは、造船所を中心に近代化されていく町並の景観とともにリアルに措かれ、現在もなお当時の面影を町の角に見ることができる。
 ブロンズレリーフは洋画家安岡明夫氏。
 文は稲子が『素足の娘』より自選、自筆である。 
   平成二年十月廿一日
市教委・文学碑協会建

『相生と文学碑』
佐多稲子
 佐多稲子は、明治37(1904)年6月、長崎市で生まれました。本名を佐田イネといいます。
 父・田島正文は、大正4(1915)年10月、長崎の三菱造船所を退社して、一家で上京し、父の弟・佐多秀実の元に寄宿しました。
 父・田島正文は、大正6(1917)年、相生の播磨造船所に社員として単身赴任しました。
 佐多稲子(14歳)は、大正7(1918年)年、祖母の苦労を見かねて、芸者になるという手紙を父のもとに差し出したことが縁で、父に呼ばれて、相生にやって来ました。滞在は16歳までの約三年でした。その間、田島父娘は、新町の魚屋の二階や相生の町並みの続く小間物屋、陸の米田長次氏宅、苅野達雄氏宅、山本正之氏宅の奥にある二階屋などに転々と間借り生活を続けていました。

 上京した佐多稲子が上野の料亭・清凌亭で女中をしていた時、芥川龍之介・菊池寛・久米正雄・宇野浩二らと出会いました。
 佐多稲子(17歳)は、大正10(1921)年、女中奉公がいやになり、父を頼って、再び、相生にやって来ました。しかし、滞在は数ヶ月でした。
 上京した佐多稲子(18歳)は、大正11(1922)年、本郷動坂のカフェー「紅緑」に勤めていた時、中野重治・堀辰雄・窪川鶴次郎らと出会いました。
 丸善に就職した佐多稲子(20歳)は、大正13(1924)年、上役の世話で、資産家の息子で大学生の小堀槐三と結婚しました。
 夫婦間に不和が生じた佐多稲子(21歳)は、大正14(1925)年、自殺未遂を起こしました。そして、長女出産のため、父を頼って、三度、相生にやって来ました。この間のことは、『牡丹のある家』(1934年)に描かれています。
 佐多稲子は、長女葉子を出産後、上京し、『驢馬』の同人である中野重治・窪川鶴次郎らと出会います。
 佐多稲子(23歳)は、昭和2(1927)年、上野の料亭・清凌亭で会った芥川龍之介に再会しました。この時、芥川竜之介は、佐多稲子に「自殺未遂を起こした時の経験心理はどうだった」と問われました。その三日後、芥川龍之介は謎の自殺を遂げました。
 昭和3(1928)年、『キャラメル工場から』が認められ、日本プロレタリア作家同盟の婦人作家として重要な位置を占めるようになりました。
 佐多稲子は、昭和47(1972)年11月2日、相生市制30周年を記念して、50年ぶりに相生を訪れ、「相生と私」の文化講演を行いました。
 「佐多でございます。私は50年ぶりに、こちらへ参ることが出来たのでございます。
 私が相生に参りましたのは、数え年‥‥十五‥‥ぐらいだった‥‥と思います。 −
 まあ、いちばん深い思い出と申しますのは本当に今、ご紹介くださいましたように、少し早熟な女の子が、そろそろ大人の感情がわかっていく、そういう時代をここで過ごしましたものですから、相生というところ、私にとっては、もう私の生涯の中でも、非常に印象の濃いところでございますし、それが私の作品になった所以だと思いますけれども、書きましたことで、また、一層相生は私に深くなったところでございます」。

相生と『素足の娘』について 
 佐多稲子は、昭和58(1983)年10月、相生に来た時に、次のように講演しました。
 「相生は懐かしい、父が播磨造船所の社員であった。その父によばれて私が東京から相生へ移ったのは1918(大正7)年、14才の少女のときである。相生は、造船所の活気にともなって、急速に展がりつつあった。そんな時の生気あふれる雰囲気のこの町で、少女の私は、物心つく娘へと育っていったのである。私にとってのこの時期は、わが息吹きさえ慕わしく、凡てが新鮮であった。だから相生の風物と、そこで出合った人々は克明に私の胸に残り、今もなお、故里なつかしさにも似た思いのかかる町なのである。実際にまた、私の長女は那波で出生した。彼女にもその生地を見せてやりたい。

 『素足の娘』は、私のこの相生のときを描いている。昭和15(1940)年の作である。春に目ざめてゆく娘をわが回想のうちにとらえようとした。いわばそれは私の相生への思慕によっていた。従ってこの作は、ひと頃まで作者の自叙伝かと読まれてもきたのである。この文章は、相生に直接関わるから、明らかにしておかねばならぬのはそのことである。この作は事実そのままの自叙伝ではない。作中の終りに向ってその娘の出合う人生的な経験は、小説として作者のつけ加えた虚構なのである。実在と虚構を入れまぜているから、虚構は事実として読まれ、そのために、描いた人に許りがたい程の深い迷惑をかけてしまった。この事については、今までにも何度か、事を明らかにする文を発表してきたが、ここでも改めてそのことを証しておきたい。作家の勝手な創作によって実在の人を傷けた罪は、釈明のできることではない。自分の罪を深く心の内におく。

 このたび、相生ライオンズクラブの二十周年記念として相生に、この「素足の娘」の碑が建つ。ありがたいことであって、相生への私の思いはまた重なる。安岡明夫氏の制作されたブロンズ・レリーフが美しい。これらのこと共に、『素足の娘』の作者としての私の仕合せである。この碑を建てて下すった相生ライオンズクラブの皆様と、いろいろお世話を頂いた相生市に厚くお礼申し上げる。

文学碑レリーフの制作を担当して
 佐多稲子のレリーフを担当した安岡明夫は、次のように語っています。
 「‥‥相生は予想したよりははるかに明るく、静かだった。初めて出逢った方々も皆穏やかで、私の仕事は楽しかった。‥‥ブロンズ板を埋込む大きさと、色形のよい自然石を捜し求めるということは、可愛い娘に似合いの婿を探し歩く気持に似ようが、実ははるかに確率の低いアテのない旅であったことか。この夏の最高気温を記録する岡山・萬成でその彼氏なる石に出逢えた時、私は初めてこの仕事の成功を確信出来たのだ。
 ‥‥佐多先生にお逢い出来たこと、‥‥あの石にめぐり逢えたことによって、私は後世に残される一つの大きな仕事が出来た幸せを噛みしめる。この碑がこれから多くの人々と出逢うだろう。この碑の前でまた様々の出逢いがあろう」。

佐多稲子と相生
 相生に建つ文学碑であるから、「素足の娘」の碑であることは間違いないし、またこうした文学碑の常として、作品の中からその章句が選ばれる事になるだろうが、はたして佐多さんはどの言葉を選ぶのだろうか‥‥。
 いつも衆目の落ち着くところは、「相生と書いて、おう、と読ませるこの町は、瀬戸内海の小さな港の一つであった。一里ばかり出ていけば、山陽本線の那波という停車場へ出る。‥‥」という一句であった。
 しかし、安岡さんのデッサンに佐多さんの文字を書き込んだ原画が送られて来て、佐多さんが選んだのが大方の予想を全く覆して、「ホ、素足のむすめが行くぞい‥‥」である事を知った時、衝撃を受けた。
 「相生の町」は佐多さんの文学と人生にとって、どんな意味を持つものなのであろうか。佐多さんにそんなにも深い思い入れを傾けさせるのは、なぜなのであろうか。

 第1には、「素足の娘」という作品が佐多稲子の文学の歩みの中に占める位置の重さ、大きさである。
 初版1万部が、またたく間に7万部売れ、当時のベストセラーとなった。第一次大戦下、新興工場街の喧騒の中で懸命に生きていく、母親のない少女の清純な活気と健気さは、同じような荒々しい怒号に包まれ、出口の見付からぬ不安なトンネルの中を歩いているような昭和15(1940)年の人々にとって、たしかに一種の救いであったと思われる。
 昭和13(1938)年「婦人公論」に連載した「くれなゐ」が完結し、作家窪川稲子の名は既に不動のものがあったが、この「素足の娘」は一挙にその読者層を拡大し、流行作家の域にまで押し上げていた。その意味で、「素足の娘」は佐多稲子にとって歴史的な作品なのである。

 第2には、相生で過ごした3年弱の期間は、佐多稲子の人生に於いてたった一つの無条件に平安な時期であったということによるものであろう。
 佐多さんの前半生は、11歳で一家と共に上京して以来、貧困、結婚生活の破綻、思想上の慄悩など、様々な苦息につきまとわれ続けてきた。しかしその中でたった一つ、重い雲の間から束の間の青空が覗いたような平穏な短い期間がある。それが相生時代なのである。しかもそれは最も感受性の柔軟で繊細な14歳から16歳までの時代であった。

 第3には、第2とは打って変わって、暗い人生の谷間での相生時代にかかわるものである。「素足の娘」の題材となった時期の後、佐多稲子の結婚は陰惨を極めたものとなり、三度も自殺未遂を繰返し、相生の父の許に引取られた。長女葉子を出産したのも、その相生に於いてであった。かっての相生で、今度は過酷な冬の生活であった。しかし、葉子を腕に抱いた母としての人生開眼でもあったか、肉体的にも精神的にも健康を回復し、父一家とともに上京する。
 この意味で、この二度目の相生(関東大震災後一時父の許に身を寄せたので正確には三度目だが)の生活は、生の否定という絶望的状態からの転生であり、また文学者佐多稲子の誕生を導くものとなった。

 昭和58(1983)年10月、佐多稲子文学碑の除幕に際して、長女葉子さんを伴って相生を訪れた。葉子に「お前さんの生れたのはここですよと言ってやりたくて」ということであった。昭和47(1972)年、戦後初めての来相の時、「素足の娘」の住居は大体確かめられていたが、菓子誕生の家のみは、折角現地に探しながら遂に確認できなかった。

 しかし、今度は地元での事前調査もあって、その家に案内された時、80歳近いこの作家は足早にその周辺を歩き廻って、その家(改築されてほとんど昔の面影を変えてしまっている)を確認した。執念にも似たその動きの中に、傷心の身で長女を産み、一度は悲哀と虚無の中で否定した生を、再びしっかりと自分の手に取り戻した60年前のその日々を想う老作家の心の重さを、私達はそこに見たのである。

 佐多稲子が相生にかける思いの深さは、単なる感傷ではなくて、以上の様にその人生と文学の深所に結びついている
 この碑にこの言葉を選んだ作者の意図は明らかである。転変を重ねた人生のその時どき、相生は懸命に生きた舞台であった。苦悩や錯誤もあろう、しかしその中を貫くものは一途な意志であり、健気さである。それを今振返るとすれば「いじらしく」という言葉しかないのである。

佐多稲子の著書・文学賞など 
『佐多稲子全集』十八巻
昭和37(1962)年、『女の宿』女流文学賞
昭和47(1972)年、『樹影』野間文学賞
昭和50(1975)年、『時に佇つ』川端康成文学賞
昭和58(1983)年、『夏の莱−中野重治をおくる』毎日芸術賞
昭和59(1984)年、朝日賞
昭和60(1985)年、『月の宴』讀賣文学賞

佐多稲子文学碑

 『素足の娘』 は、佐多稲子が初めて書き下した長編小説として、昭和十五年(一九四〇)新潮社より刊行され、ベストセラーとなった作品である。この作品は稲子十四歳から十六歳(大空完)にかけて、当時播磨造船所に勤めていた父のもとでの生活を、自伝的要素を加えて書いている。
 思春期を迎えた少女が、いろんな慣れや希望を抱きながら、いじらしいほどけなげで、ひたむきに生きようとする姿を措いた青春文学は、佐多文学の中でも特異な位置にはいるものだ。
 第一次大戦時の活気に満ちた町と人々の動きは、造船所を中心に近代化されていく町並の景観とともにリアルに描かれ、現在もなお当時の面影を町の角に見ることができる。

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出典:『相生と文学碑』・『相生の文学』

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