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□相生市の文化・歴史

縄の浦日置少老万葉歌碑
那波南本町 中央公園
揮毫は神戸大学名誉教授吉川貫一
現地案内板
  縄の浦日置少老万葉歌碑
 縄乃浦尓塩焼火気夕去者行過不得而山尓棚引 貫一書

 縄の浦に塩焼く火気夕されば行き過ぎかねて山にたなびく(巻三 三五四)
 「縄の浦」は相生市那波の海岸、または相生湾の総称。「火気」はほのけとも訓む。縄の浦で塩焼く煙は、夕なぎの頃になると、流れもあえず山にまつわりついてたなびいている−。
 作者日置少老(へきのをおゆ)は伝未詳。都も遠く、播磨の国も過ぎて、いよいよ西辺の海に入る旅愁を、山にたゆとう塩焼く煙に託した歌。
 揮毫は神戸大学名誉教授吉川貫一氏。
平成二年十月廿一日
                         市教委・文学碑協会建

『相生と文学碑』
塩焼く煙
 日置少老の歌は、万葉集中にはこの一首のみです。

 この歌に出てくる「縄の浦」については、相生市那波説のほかに飾磨説・摂津説・土佐説その他がありました。
 山田孝雄『高菜集講義』では、「これは飾磨郡にあらずして赤穂郡にある那波村をさせるものなるべし。この地は古の山陽道の要路赤穂街道の分岐点にあたり、山陽本線の那波駅のある地にして、如何にも海と山との相迫れる地にして、この歌にいへるに通へれば、或はこの地ならんか。この地方製塩に名高き地なれば由ありと思はる」として、赤穂郡那波村(発刊当時)説をとって以来、これが定説として確立しました。

 地理的な「縄の浦」は、狭く限定した湾最奥部の那波港付近、広く相生湾全体、湾口一帯の海上など諸説あります。
 相生湾口の壷根で、海人族の遺蹟が発見されました。海を生活の寄り所とした海人族は、当然、製塩も行っていたでしょうから、少老の見たのは、壷根の藻塩焼く煙だったかもしれません。
 他方、当時の舟航は、夜行を避けるのが普通でしたから、湾内に夜泊した可能性もあります。澤潟久孝『萬菓集注解』では、「(那波町の)西北には宮山といふ山が迫ってゐて、この歌の趣にふさはしい地である」と指摘しています。「宮山」山麓には、古墳群が確認されているので、少老の見たのは、宮山の里の藻塩焼く煙だったかもしれません。

 「火気」は「ほのけ」とも訓みます。「夕されば」は夕方になると、「行き過ぎかねて」は消えてしまわないでの意味、山に近い海岸では気温の関係であろうか、煙が山にかゝって長く棚引いている情景はよく見られます。

 万葉の時代は、藻塩法により塩を生産していました。藻塩法とは、乾燥した藻を焼いて灰塩や鹸水(高濃度の塩水)を煮詰める方法をいいます。鹸水を煮詰めるために、長時間、多量の燃料を燃やします。海辺のそこここには、昼となく夜となく、藻塩を焼く火の気が燃え上がる情景が見られました。

 奈良時代、大和と九州または伊予などを結ぶ交通の幹線は、瀬戸内の海路でした。日置少老のこの歌には、「行き過ぎかねて」とあります。刻一刻と故郷の大和から遠ざかっていく心情を表現しているので、西航(往路)の時に詠んだものと思われます。
 当時は、危険を避けて、海岸線の迂曲に従って舟航していました。西に向かう舟に乗る少老の目には、海辺に立ち昇る藻塩焼く煙が見えたことでしょう。そこで立ち働く海人の姿も見えたかもしれません。夕闇の中に塩を煮る真っ赤な火の色が鮮やかだったことでしょう。

山田孝雄
 山田孝雄は、明治6(1873)年5月、富山県に生まれました。 日本語の変遷を追求するほか、国語学の種々の分野にわたって顕著な業績を残しました。昭和32(1957)年、文化勲章を受賞しました。
 山田孝雄は、昭和33(1958)年11月、亡くなりました。

吉川貫一
 吉川貫一は、明治37(1904)年、兵庫県に生まれました。 兵庫師範学校・神戸大学教育部教授、松蔭女子学院教授を歴任し、神戸大学名誉教授でした。澤潟久孝に師事しました。
 著書に『万葉と郷土』などがあり、古地図をもとに那波が現在より更に深く湾入し、島峡も数個が散在していたことを万葉学界に初めて報告しました。
 戦時動員で來相していたという体験を持っています。
 吉川貫一は、平成4(1992)年5月、亡くなりました。

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出典:『相生と文学碑』

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