index home back next

□相生市の文化・歴史

和泉式部旧跡碑
若狭野町雨内
  「苔筵敷島の道に行きくれて 雨の内にし宿る木のかげ」和泉式部は平安朝の女流歌人。書写山参詣の帰途、娘の小式部を若狭野に訪ねる式部伝説の地。

得乗寺のしだれ栗
現地案内板
 「苔筵敷島の道に行きくれて雨の内にし宿り木のかげ」(大正四年 地元黒田氏の建立)

 平安時代、女性として恋の心理葛藤を数多く詠んだ和泉式部の歌とされている。
 和歌の道を探し求めて、この雨内村にやってきたが、おりあしく雨に降られて一本の栗の木に身を寄せる。すると、栗の枝が傘のように枝垂れて雨を凌ぐことができたという。この雨宿りが、生き別れになっていた娘小式部との巡りあいのきっかけとなる。小式部は幼くして拾われて、この雨内村の長者に養われていたのだと伝承は説明する。全国に点在する和泉式部伝承の一つである。
 「苔筵敷島の道に行きくれて雨の内にし宿り木のかげ」
 は、「雨宿り」と「やどり木」とをかけていて、平安調の風味を伝えている。が、この歌、和泉式部集にはない歌である。
平成二年十月廿一日 
市教委・文学碑協会建

『相生と文学碑』
雨宿りの栗
 和泉式部は一條院の中宮上東門院彰子に仕え、紫式部・清少納言らと並び称せられる平安文学の才女で、歌人として有名です。
 また、その巡歴の伝説は、日本全国におびただしく散在していますが、この地にも次のような伝説があります。

 和泉式部は、和泉守橘道貞と結婚しました。しかし、娘・小式部が生まれる前に、夫・道貞は亡くなりました。そこで、和泉式部は、涙をのんで、京都のとある所に、小式部を捨子してしまいました。この時、証拠として絹に包んだ守本尊を娘・小式部に持たせ、さらにその絹の半分を和泉式部が持つことにしました。その捨子を拾って養育したのは、たまたま所用で京へ上がっていた播磨国若狭野村の長者五郎大夫でした。

 その後、和泉式部は、上東門院彰子(藤原道長の長女で、一条天皇の皇后)に仕えて、名声が次第に高くなりました。その時、娘・小式部に逢いたいと切実に思うようになりました。ある時、上東門院彰子が播磨の書写山へ参詣することがありました。参詣を終えて、娘・小式部の行方を尋ねて、若狭野町雨内にやって来ました。
 和泉式部は、時雨にあい、栗の木でえ雨宿りをして、一首の歌を詠みました。すると、たちまち、栗の枝が傘の形に垂れて、時雨から和泉式部を助けました。
 この時の歌が
 「苔筵 敷島の道に 行きくれて 雨の内にし 宿り木のかげ」
 です。これより、人々の口に「宿り木の栗」「雨宿りの栗」と伝えられました。

 和泉式部は、その日、行き暮れて、若狭野の里の五郎大夫という長者に頼んで、一夜の宿をとりました。その時、五郎大夫の娘が細い流れで綿を摘み揃えていました。それを見た和泉式部は、自分の捨てた娘・小式部と同じ年頃の娘であり、懐かしく思えて「その綿売るか」と尋ねると、その少女は
 「秋川の 瀬にすむ鮎の 腹にこそ うるか(鮎の腑の塩漬)といえる わた(腑)はありけれ」
 と歌で答えました。和泉式部が「あな子女(こめ)がよく詠みたり」(こめかし=あどけない)と褒めるとと、娘は
 「秋鹿の 母その柴を 折り敷きて 生みたる子こそ こめか(子女鹿)とはいえ」
 と詠に返しました。この即妙の歌に感じ入って、その少女の身の上を尋ねてみると、我が娘・小式部であるらしい。

 そこで、主人の持っている証拠の絹と、和泉式部が持っている絹と継ぎ合わせてみると、地紋もぴったりと合い、娘・小式部に持たせた守本尊もありました。和泉式部は、「これこそ我が子に間違いない」と、主人の夫婦に娘・小式部を返して欲しいと懇願ししました。しかし、主人の夫婦も、長年、慈しみ育てた娘なので、なかなか承知をしませんでした。
 やがて、和泉式部の熱意に心をうたれ、主人の夫婦も遂に承諾しました。和泉式部は、親子の名乗りをして、都に連れ帰り、その後、上東門院に宮仕えをさせたと云われています。

 「大江山 生野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」
 は小式部の詠んだ有名な歌です。小式部は、聡明で、美しく、二条関白・藤原教通やその弟の堀河右大臣頼実などに慕われていました。しかし、年若くして、この世を去ったと云われています。

 和泉式部が小式部を捨てた時、のちの証拠にと持たせた守本尊は、姫路の慈恩寺にあるといわれています。また、若狭野の薬師堂の本尊は、姫路慈恩寺の守本尊を分祀したものだといわれています。さらに、捨子の証拠として小式部産衣の紐に
 「捨てし子を 誰取りあげて 育つらむ 捨てぬ情を 思ひこそすれ」
 と書き付けていたともいわれています。

しだれ栗
 村内では小式部は雨内で生れたといわれています。「雨宿りの栗」は、今はなく、跡に教証寺三輪教道住職の筆になる碑が建っています。
 赤松円心の孫教祐が那波の浜御殿に移し植えたといわれています。得乗寺の「しだれ栗」はこれを植え継いだものだといわれていますう(昭和10年、兵庫県天然記念物に指定)。
 「しだれ栗 昔をしのぶ 雨宿り 挿木さかえて 今も変らじ 岡田馮淤」

和泉式部
 『和泉式部日記』は『和泉式部物語』ともいわれ、長保5(1003)年4月から10ケ月間の愛情の進展を物語風に描写しています。『和泉式部集』7巻は20歳頃から50歳頃までの1500余首の家集です。
 平安遷都から約100年は、漢詩文の隆盛で国文学は影を潜めるが、草仮名(平がな)が発達して、六歌仙(僧正遍昭・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大伴黒主)が活躍しています。
 続く約200年の前半では、三代集(古今和歌集・後撰和歌集・拾遺和歌集)、後半では、『枕草子』『源氏物語』が書かれました。以後、和泉式部が一脈の生気を与えました。

和泉式部とその伝説
 熊野三所権現(本宮の家都御子神(けつみこのかみ)、新宮の熊野速玉神(くまのはやたまのかみ)、那智の熊野夫須美神(くまのふすみのかみ)の三神)は特異の霊地として尊崇され、修験道の中心地となりました。その山伏は、霊験の宣伝や道案内を勤め、更に伝道や勧進に歌比丘尼(修業尼)が出現しました。
 鎌倉以後、田舎廻りの物語僧や瞽女(遊芸して渡世する盲女)が現れました。彼らは、廻国遊行して小町や式部らの伝説・歌を伝播・形成したといわれています。
 『播磨鑑』には、ワタを売るかの問答歌が縁で小式部とめぐり会う伝説が紹介されています。『福泉寺由来伝記』には、薬師如来を信仰していた大黒丸夫婦にシカの子が授かり、その子がのちに和泉式部となった伝説が紹介されています。
 謡曲の素材ともなった『誓願寺』『和泉式部』『貴布禰』『書写詣』『小式部』なども残されています。

現地の地図表示後、「スクロール地図」に切り替えてご利用ください
出典:『相生と文学碑』・『郷土のあゆみ相生』

index home back next