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□相生市の文化・歴史

水守亀之助「野火」文学碑
那波南本町 中央公園
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現地案内板
 「野火燃不尽春風吹又生 録白居易詩句 亀之助」
昭和六一年十月十二日
 市教委・文学碑協会建

 水守亀之助「野火」文学碑
 大正中期から昭和初期にかけて新自然派の作家として活躍し、また生涯を雑誌編集者として歩んだ水守亀之助の文学は、都会的な派手さや器用さとは異なる、いわば地方的農村的な地味で誠実な色彩のもので、「いぶし銀の昧」と評された。
 この碑銘は「野火燃エテ尽キズ 春風吹ケハマタ生ズ」と読む。原詩は白居易(楽天)の詩の一節で、(生いしげる野原の草は)野火もそれを焼きつくすことはできず、春風が吹けばふたたび生いしげってくる−というものである。
 水守は昭和十二年、雑誌を創刊し、その詩名を「枯草を焼いて新しい芽生えを待つ」という意味で『野火』と名付け、「野火精神」「新鮮な野趣」を唱導した。その意味でこの詩句は水守文学の根幹をあらわすものである。
平成二年十月廿一日
市教委・文学碑協会建

『相生と文学碑』
野火の文学
 「野火燃不尽春風吹又生 録白居易詩句 亀之助」
 この句は自居易の「古原草ヲ賦シ得テ別レヲ送ル」という詩の中から出ています。
 「離離タリ原上ノ草 一歳ニ一タビ枯レ榮ユ
 野火焼ケドモ蓋キズ 春風吹ケバ又タ生ズ
 遠芳古道ヲ侵シ 晴翠荒城ニ接ガル(下略)
 以下のような意味になります。
 きれざれに生い茂る野原の草は、一年に一度は枯れたり栄えたりする。野火も焼き尽くすことはできず、春風が吹けば、またしても生えてくる。遠くまで続く芳草が、古い道路を侵して茂り、晴れた草原の緑が、荒れ果てた城壁に続いている‥‥

 水守亀之助が「それ(雑誌『野火』)は枯草を焼いて、新しい芽生えを待つような仕事であった」というように、枯草(退廃しっつある都会的旧文化)を「野火」(新鮮な野趣)によって焼き尽くし、「春風」(新時代)とともに「遠芳」「晴翠」(清新健康な文化)を育てよう‥‥というのが水守亀之助の心であったと思われます。

 水守亀之助の一生は文学一途の生涯であった。自然派として文壇の第一歩を印しながら、その世界にのみ安住することができず、ロマン主義に揺れ、歴史小説に行き、プロレタリア文学を指向したこともあり、少年少女小説や大衆小説、さらには戯曲や推理小説を書いたこともありました。
 だが、その振幅の中心にあるものは一貫して、庶民的感覚であり、在野精神でした。
 昭和12(1937)年1月に創刊した雑誌『野火』の発刊の言葉として、文壇の混迷と退廃を救うものは、地方・農村の持つ「新鮮な野趣」でなければならぬ、といっています。『野火』という題名もこれに由来しています。

 水守亀之助の文学は、初期から「いぶし銀」と評されていました。都会的な器用さや派手さとは無縁な、鈍重とさえ見える、したたかで骨太なものが一本貫いています。この地方的、農村的な野火精神・新鮮な野趣は、水守亀之助を育んだ郷村の風土と血が生んだものです。その意味で彼の「野火の文学」は、郷里を同じくする私たちこそが、最もよく理解できるものでしょう。

碑文
 この碑文は、昭和20(1945)年、東京大空襲で被災した水守亀之助が赤穂市津田医院に疎開中、相生市矢野町瓜生芳賀富士夫医院長を訪問した時、揮毫したものです。

水守亀之助の渋い味(紅野敏郎)
 ‥‥水守は彼自身の資質を十分に弁え、己に忠実に生き切ろうとしたのである。彼は旧来の人生派の基調、つまり自然主義直系の老大家の存在を十分に尊重しっつ、然も一部の人びとの唱導する新入生派では物足らず、むしろ旧来の人生派を母体にして「ダイアレクティク(弁証法的)の作用」を経て、その苦悩の中から生れ出る人生派を、自分の臍の緒として結び付けようとする。
 「自分の主張や、思想を盾にとって、直ぐ他を侮蔑するやうな、思い上がった態度」を水守は頑固に排斥する。新時代の旗手になるまいとした作家、それが水守亀之助であったのかも知れぬ。一瀬直行は追悼文の中で「どんな作品からも何か良い点を見付け出し、それを評価する。それは水守さんの思いやりのある、理解の広さと深さから来ている。決して甘い訳ではない」と語っているが、まさに同感である‥‥。

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出典:『相生と文学碑』

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