浦山貢文学碑 |
那波南本町 中央公園 |
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書 田中惰治
冬日はとくさの直線
しんじつに打ちこむことの尚難し桐の若葉は夕陽に
透きて |
現地案内板 |
浦山貢文学碑
浦山貢は福岡県の出身。(明治三二年〜昭和二四年、五十歳)。若くより詩歌に親しむ。鈴木商店名古屋支店に勤務のころ、俳誌『層雲』、つづいて歌誌『水甕』に入会する。『冬日はとくさの直線』はこの時代の作で、自由律俳句集『茶の花』に所載。
昭和五年播磨造船所に入社し相生にうつる。『水甕』『層雲』の縁で、岡田源吾・田中脩治らと親交を深め、歌誌『飛魚』を発刊、また市議会議員として市政にも参画し、地域の文化活動の中心的存在となった。「しんじつに打ちこむことの尚難し桐の若葉は夕陽に透きて」は最晩年の作で、歌誌『断層』第十号に所載。
ともに簡潔な対象把握と、感覚の鋭く冴えた、氏の作風と人柄がしのばれる。「相生市歌」「相生音頭」「相生小唄」の作詞者でもある。書は田中脩治。
この地は、氏が敬愛した歌誌「水甕」の師石井直三郎大島山歌碑を望む。 |
平成二年十月廿一日
市教委・文学碑協会建 |
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『相生と文学碑』 |
情熱の文化人・浦山貢(田中脩治)
自由律俳句の歩み
桐の広葉の翠を屋根に被った弁天社宅、そこが浦山貢さんの終の住家となった。「百花春」の横額と、床脇の茶掛の一軸、共に荻原井泉水のもので、浦山さんの書斎に座ると、歌人としてよりも、むしろ「層雲」の自由律俳人の匂いが流れていた。尾上先生、松田先生と、歌の先生には姓を冠らせて呼んだが、井泉水先生に対しては、唯「先生」と呼んだ。つまり先生といえば、井泉水を意味するもののようであった。
昭和5(1930)年1月6日、名古屋から相生に移り、那波丘の台の社宅に住むようになり、木霊さんを中心に、「層雲」自由律の集りが芽を吹いてきた。育てることに妙を得ていて、次の年には十数名の同行者を得て賑やかになった。が五年の暮に、突如として豊子夫人を亡うことになった。泊さえでない悲嘆のなかで、豊子夫人の手紙と、集って来た追悼句や歌を集めて『冬草』を編んだ。
昭和14(1939)年層雲社刊の木霊句集『茶の花』から拾ってみる。
火鉢に ひばしがなくて待たされてゐた(昭和5(1930)年)
はかなく葬りし山を見てをれば頬白(昭和6(1931)年)
「『茶の花』という句集名は、私の最初の句から取ったもので、私の俳句も生活も茶の花のように、咲き映えのしないものだ」と(浦山貢の)後記にある。俳句を忘れた訳ではなく、毎月『層雲』は克明に見ている。
「飛魚」の歩み
昭和13(1938)年3月、創刊の扉に、片々たる結社意識を精算し、近き者相寄り相警め「『飛魚』は短歌鍛錬の道場」と張り切っている。出詠者60名、龍野・赤穂・山崎・明石方面にまで及んでいて、表紙は鈴木信太郎画伯の新鮮な絵で飾られていた。毎月、例会、吟行等を開き研究を重ね、新人を育てた。
昭和15(1940)年10月、洋紙不足によるその筋の勧告あり、廃刊することになる。浦山さんの廃刊雑想に「私共はいま微笑ましい決意を以って『飛魚』に訣別しょうとしている。『飛魚』は潔く自爆しょうとして、私の心にもりあがってくる感情は、この小さな船に乗合せた人々の、友情に対する感情の念のみである」とあり、表紙の鈴木信太郎画伯、執筆者三木清、安田青風、金澤種美、下村章雄、水守亀之助の諸家に謝意を述べている。
歌集『飛沫』より
桐の葉の青く光ればうつしみの われさえ青し朝のめざめに
赤き浮標揺れひそかなり碇泊船 あらぬ港を鴎とびかふ
うちあげしダイナマイトの土煙 青葉をぬきて空にとどけり
「断層」の歩み
美しい国原を焦土と化したのち、長い苦しい戦いも終った。
颱風あとの秋空あをく澄みゆけば 愛しきまでにわが生きてあり
敗戦の惨めさと裏腹に、やっと人間として自由に、のびのびと生きて行けるる者74名、浦山さんは指導に作歌に打ち込んだ。
腹巻の金もとぼしくなりにけり 夜半の鼠が我が家を荒す
その頃、徐々に肉体を蝕まれていたのか
窓近く鳶は過ぎしか頭を病める わが魂をゆさぶることなし
蔓ばらの花くれないに散り乱る 世を捨てかねし心まどひよ
ある心あやしきまでにたかぶりて 月光に泌む白壁を見き
最後の歌は次に来るべきものを暗示しているかのようである。
「断層社の皆様、皆様の信頼を裏切り、歌人の名誉を傷つけたことをお詫びします。これに依って歌を捨てない様にお願いします。
緩やかに毒はめぐりつ悔多き われのひと生のをはらむとする」
を残して、磯際山の断崖に自らの命を断ったのである。
昭和5(1930)年から20年間、自由律俳人・歌人として相生の文化活動の中心的エネルギーとして燃え続けた生涯であった。先達浦山さんを失ってから30年、その流れを汲む文芸の灯は、色を変え形を改めながら、港街の文化の底流となって脈々として生き続けているのである。 |
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浦山貢
浦山貢は、明治32(1899)年12月、福岡県朝倉郡夜須村で浦山権兵衛の三男として生まれました。
浦山貢は、大正6(1917)年、鈴木商店に入社し、名古屋支店に勤務する傍ら、須藤潔二・堺野一之との三人合著歌集『離愁』を出版しました。
浦山貢は、大正13(1924)年、萩原井泉水の俳誌『層雲』に入会し、木霊と号して、自由律俳句に精進しました。
浦山貢は、昭和4(1929)年、石井直三郎の短歌結社『水甕社』に入社しました。
浦山貢は、昭和4(1939)年12月25日、『層雲』誌を通じて知っていた田中野蒜(田中脩治)宛てに葉書を出しました。
「突然ハガヰをさしあげる不躾をお許し下さい。この度、私貴地の播磨造船へ入社し、新春一月六日に赴任することになりました。 会社の内部にも外部にも一人の知人なく、全然未知の所へ行く私にとって、層雲の誌友としてあなたが居られることは何よりの喜びです。そちらへ行きましたら種々御厄介になることでせうが、何分よろしくお願ひします。会社の社宅も那波村にあるとかいふことで近くになれるのではないかと楽しんでゐます。いづれお眼にかゝりまして詳しくお願しますがとりあへず右御挨拶申上げます。
十二月二十五日
浦山木霊
浦山貢は、鈴木商店の破綻により、昭和5(1930)年1月6日、名古屋から相生の播磨造船所(今の石川島播磨重工相生工場)に職を求めての転居でした。新しい住まいは、赤穂郡那波村丘の台(今の相生市那波南本町)の社宅でした。浦山貢が来るのを待っていたのは、荻原井泉水の俳誌『層雲』に句を投じていた田中野蒜でした。単身赴任して来た浦山貢は、那波港のほとりの田中野蒜の家を訪れ、二人の誌友は親しく初対面の挨拶を交わした。
その折の印象を、後に野蒜は、「話したことは忘れてしまったが、黒みがかった瀟洒な服と、鋭いほどに澄んだ眼との印象の深い青年詩人であった」と、追悼記の中に回想している。
後日、野蒜の勤務先の坂越小学校を訪ねた時、貢は次のような句を残している。
野蒜を訪ふ
オルガンも弾ける君の窓から海だ(句集『茶の花』)
丘の台にある浦山貢の家には、田中野蒜と岡田牧穂(源吾)が集まり、火鉢を囲んで、夜も更けるまで話が弾みました。岡田牧穂の母方の叔父・歌人石井直三郎は、『水甕』の編集者でした。浦山貢も、『水甕』に属していのでした。
浦山貢の妻・豊子(27歳)は、昭和5(1930)年12月、長男・桐郎を出産後、高熱を発し、腹膜炎を併発して、「小枝と坊やをお願いします」との言葉を残して急逝しました。
浦山貢は、岡田牧穂(源吾)・田中野蒜と親交を深め、妻・豊子の追悼集『冬草』を発行しました。
浦山貢は、書名『冬草』について、「石にひしがれ、風に荒まれながらも、強く伸びて枯草の中にひともと青いふゆくさ、それは豊子の淋しい姿であった。幼い時から苦しみに追はれて来た彼女の心はいつも強くゆるみなく張りきってゐた。それでゐてまた誰に対してもつねに微笑を忘れぬ彼女であった・・」と書いています。
単身赴任の夫・浦山貢の許へ送られた妻・豊子からの書簡11篇、追悼詠として尾上柴舟・石井直三郎・荻原井泉水らの作品、最後に浦山貢の短歌・自由律俳句の作品が収められています。
まだぬくき顔に手をやり二人の子をたのむとふ最期の言を聞きを
歌ひつつ帰り来し子に聞かすべき言葉を知らず抱きあげにけり
子の帯がみあたらない葬式がもう出る
そこに昨日まで寝てゐた畳の目
浦山貢は、昭和9(1934)年、相生商工会の委嘱により、岡田源吾らと「相生音頭」「相生小唄」を作詞・発表しました。
浦山貢は、昭和13(1938)年3月、短歌雑誌『飛魚』を創刊しました。
浦山貢は、昭和14(1939)年、木霊句集『茶の花』を発行しました。
浦山貢は、昭和15(1940)年、短歌集『飛沫』を上梓しました。
十一年間住み馴れし名古屋を去りて播州那波に移る
遠く来て今日より住まむわが家に頬ふくらして妻と火おこす
浦山貢は、昭和17(1942)年、「相生市歌」を作詞しました。10月1日に市制が施行されました。
浦山貢は、昭和22(1947)年、相生市市議会議員に当選しました。雑誌『断層』を発刊しました。
浦山貢は、昭和24(1949)年7月未明、亡くなりました。
浦山桐郎と長谷川集平
「キューポラのある街」「夢千代日記」などを制作した映画監督・浦山桐郎は、浦山貢の長男です。
「はせがわくんきらいや」「とんぼとりの日々」などの絵本作家・長谷川集平は、浦山貢の孫です。 |
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