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□相生市の文化・歴史

半田鶏肋句碑
那波南本町 中央公園
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畦に火を放ち畑うつ男かな

辟る眼に跳ぶ色や赤畦
鶏肋
現地案内板
  半田鶏肋句碑
 畦に火を放ち畑うつ男かな 鶏肋
 半田鶏肋、本名は伍郎。明治三十年、若狭野村野々射延家に生まれ、のち那波村陸半田家に入る。姫路師範学校を卒業の後、那波小学校に奉職したが、やがて結核のため昭和三年早世した。三十一歳。
 岩木躑躅に師事して句作に精進し、その句は視覚的絵画的なものが多く、どこか浪漫的な雰囲気が漂う。没後門人により『鶏肋句集』が刊行された。相生墓園の墓碑には最晩年の
 日洽き書斎うれしや福寿草
の句が刻まれている、師岩木躑躅に
 故人日々遠く鶏頭赤きかな
の追悼句がある。 
平成2年10月21日
市教委・文学碑協会建

『相生と文学碑』
追悼二三片(岡田源吾)
 先年のこと、岩木躑躅先生の遺墨展示会が郷里淡路島の地元有志により、神戸の兵庫県民会館の一室で催されたので、私は懐かしさと期待を持って会場に赴き、短歌や軸物など展示品を拝見した。岩木躑躅先生は故半田鶏肋先生の俳句の師であり、正岡子規の直弟子、高濱虚子とは俳句暦では関西唯一人の兄弟分であった由である。

 故人日々遠く鶏頭赤きかな つつじ
 この句が軸物で展示されたのを見て、私はハッと驚いた。地元世話人に句の説明とその由来を尋ねたが「誰にも判らない名吟の一句であり、地元の人達も困っている云々」という返事しか無かったので、私は自分の承知している思い出を辿って、この句の詠まれた背景を説明した。

 故鶏肋先生の一周忌頃、躑躅先生が神戸より山陽線那波駅(現相生駅)まで御足労あり、私達有志が出迎えた。半田家まで徒歩で往く途次、畑の真っ赤な鶏頭が印象深く、先生の眼にとまったのであろう。故人追憶の情深い感銘の一句であった。
 当時躑躅先生は神戸市大倉山近くの楠町で、自ら整骨師として整骨院を経営せられていた。寡黙の人であったが、常に羽織袴で、正座された。鶏肋先生の風貌・性格には、岩木躑躅先生の感化があったのではなかろうか。

 故鶏肋先生は姫路師範卒業の年、那波小学校訓導として着任され、当時尋常五年生であった私達の担任となられた、授業も作業も常に熱心であり、愛情に満ちて活動された数年の感化は、今にして顧みれば誠に大きかったのである。
 当時地元に那波銀行があり、そこに勤務する山本・藤田両氏など、若狭野地区の青年たちにも鶏肋先生は作句を薦めておられ、銀行や学校の用務が終わった後、有志が銀行の宿直室に集まり、故人を中心に句会をよく開いたものである。

思い出断片(田中脩治)
 きのう、日直当番で学校を巡視していて、裏の溝川で蛙をみつけた。立ち止まって見ていたが動かないので、そこへ座り込んでしまった。
 そのうちに動く=@動くまで待とう″
 流れの褐色の石に紛れてしまいそうな色の蛙を見つめている中に、日永の山に近い校庭は、もう薄暗くなって来たが、それでも一匹の蛙から目を離さなかった。
「その時、跳んだんじゃ、蛙が跳んだんじゃ」
 蹲る眼に跳ぶ色や赤蛙
 塗板にゆっくりと、この一句を書きながら「視ることじゃ、根気じゃ」と呟きながら、一句の生れる過程を、自分に納得させるような調子で、目をしぼたいておられた。
 小学生の私達には、一句の本意や味は理解できなくても、先生の感動は直に伝わって来るのであった。あれから六十年余り経った今も、生き残っている灯のような記憶である。

 大正14(1925)年頃かと思うが、那波駅に近い、今は讀賣新聞の裏あたりに、鶏肋先生の病室があった。南からの朝の陽を受け、廊下を隔てて西から午後の陽の入る、六畳程の明るい二階の部屋であった。机と本箱、壁に俳句の軸を二・三幅、南の窓近くの布団に横になっておられた。
 「夏休み中に読んでみい、面白いぞ」と先生の蔵書の『坊っちゃん』を貸してくださる。芳水の詩や夢二の絵に、とっぷり浸っていた私には、重荷であり負担でもあったが、何とか頁だけは繰ってしまった。本を返しに行くと「今は解らんでもええ、読もうとした努力が大切なんじゃ」「その中に、虞美人草を読めるようになったら楽しいぞ」と笑っておられた。
 一人ひとりに、違った何かの宿題を持たせる、それが、鶏肋先生流の教育法であった。

半田鶏肋
 半田鶏助は、明治30年(1897)2月、若狭野村野々字宮野尾で、射延藤兵衛の五男として生まれました。本名は伍郎といいます。
 半田鶏助は、大正7(1918)年春、姫路師範学校を卒業後、赤穂郡那波小学校(今の相生市立那波小学校)に奉職しました。
 半田鶏助は、大正9(1920)年6月、那波村陸の半田政太郎の次女・ぬいの婿養子となりました。以後、半田姓を名乗りました。半田家は、旧家で、義父母は呉服店を営み、鶏助は妻と駅前近くに別居していました。
 半田鶏助は、那波小学校に勤務しながら、岩木躑躅に俳句を学び、将来を期待されていました。
 半田鶏助は、結核に冒され、那波小学校を休職して療養に専念しました
 半田鶏助は、昭和3年(1928)5月28日、4月末に他界した娘の後を追うように、亡くなりました。

相生墓園の句碑
 相生墓園の墓碑の裏に刻まれた句「日給き 書斎うれしや 福寿草 鶏肋」は、師岩木躑躅の筆になり、図書館前の句碑は半田鶏助の自筆です。

岩木躑躅
 岩木躑躅は、明治16(1881)年、津名郡に生まれました。本名は喜市といいます。。
 岩木躑躅の父祖三代は、接骨を業としていました・
 岩木躑躅は、大正10(1921)年、『ホトトギス』の同人となりました。
 岩木躑躅は、昭和26(1951)年、兵庫県文化賞を受賞しました。
 岩木躑躅は、昭和34(1959)年、師高浜虚子の葬儀の時、同門の最長老として同人会の代表を果たしました。
 岩木躑躅は、昭和46年(1971)11月、亡くなりました。

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出典:『相生と文学碑』・『相生の文学』

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