福田眉仙筆塚 |
矢野町瓜生 羅漢の里 |
|
|
現地案内板 |
福田眉仙は明治八年矢野町瓜生に生れる。橋本雅邦に師事。岡倉天心の日本美術院創設に、横山大観、下村観山らとともに参加し、南画を基調とする独自の画境を築き、晩年は芦屋に隠棲し、ひたすら画業に精進した。
福田眉仙翁ハ一世ノ画傑ナリ 名ハ海外ニアマネク郷人ハ之ヲ栄トス 翁ノ彩管(絵筆)ノ日美(日米)親善ニ資スルアリシハ 識者ノツトニ知ルトコロ亦尋常ノ画儔(画の仲間)ニ非ザルナリ 昭和癸卯(三十八年)十月ヲモッテ易簀(賢人の死)シ世寿八十九トイフ 知ルト知ラザルト悼マザル者ナシ 此ニ於イテ筆塚ヲ築キ生前ノ筆ト墨トヲ埋ム マコトニ以ナキニアラズ 係クルニ銘ヲ以テス
人トナリ高雅 技ヤ絶倫
画巻寄スル所 日美ノ親ヲ締ス 小林楓村撰 |
平成二年十月廿一日
市教委・文学碑協会建 |
|
『相生と文学碑』 |
福田眉仙
福田眉仙の本名は周太郎です。字は有慶で、久保田米僊から麥僊の号を与えられました。
福田眉仙は、福田林蔵の七男として明治8(1875)年9月、矢野町瓜生に生れました。
小さい時から、絵が巧みで、揖保の宮田基渓に榊の高原玉渓らと交流がありました。
17歳の時、京都の久保田米僊に師事して、人物画を学びました。
次いで東京美術学校では、9年間、橋本雅邦に師事して、山水画を学びました。校長岡倉天心には人格的に深い影響をうけました。
明治31(1899)年、天心が雅邦らと日本美術院を創立すると、横山大観・下村観山・菱田春草らと共にこれに参加し、伝統に基づいて新美術を開発する運動に尽力しました。
与謝蕪村や雪舟等楊に私淑し、四條派及び狩野派を学んで南北両派を融和して、新機軸を開き、多くの賞を受けています。
岡倉天心は、福田眉仙に対して、「日本美術院の中でその性格・筆致が南画に適しているのは君一人だから、衰退している南画を君の手で復興してもらいたい」と激励されました。
天心から託された南画復興のために、福田眉仙は、明治42(1909)年から約3年、ほぼ中国全土を踏破して、その成果をスケッチに修めて帰国しました。この時、峨眉山の壮観に感じ、深く祈念するところがあり、号を眉山としたといわれています。
福田眉仙は、大正6(1917)年、東京から六甲山麓の苦楽園に転居しました。その後、岡倉天心の指示に応えて、長虹画窟を六麓荘に構えました。眉仙は、湊川神社の拝殿天井中央に龍の大作を奉納したり、芦屋味楽の名物「芦屋十景煎餅」の包装紙の扇面画を描いたりしています。
福田眉仙は、昭和38(1963)年10月、亡くなりました。時に89歳でした。 |
|
福田眉仙の画風
福田眉仙の画風は、南画(文人画)を基調とするが、画題・画意によって最も相応しい各派の画風を駆使しています。そういう意味では「新南画風」とでもいうべき独自の画境を拓いて、日本美術界に独自の足跡を留めているといえます。その画境の根底を支えるものは写実主義です。
宮田基渓
宮田基渓は、天保13(1842)年12月24日、龍野市揖保町山下で、宮田其園の長男として生まれました。小さい時より絵を好み、山水花鳥を得意としました。
明治35(1902)年12月、龍野市で亡くなりました。
高原玉渓
子者 高原藤右衛門之二男也慶應二年(1866)七月廿七日(矢野町榊)生・・幼而書テ嗜ム(宮田基渓につき絵を学び)進而有志門弟ニ授ク・・惜哉竟ニ(明治39年1月25日)病死ス(碑 混文 在榊西教寺前 明治41年3月有志者建)
福田眉仙の筆塚
福田眉仙の筆塚には、多年愛用した筆十本と墨が納められています。眉仙は、故郷の菩提寺である感状山光専寺を度々訪れ、多くの襖に作品を遺しています。
各地の神社・仏閣・学校にも名作を寄贈し、今もその麗筆に接することができます。
題字は赤松眞雄(坂田聖峰)
題字は光専寺住職赤松眞雄で、発想の鮮明な文字でです。光専寺には、眉仙の絵と木庵の書があります。木庵のようにこくなところはないが、竹を割ったように筆洗に滴る水々しさの表現が、頼もしく愉快である。禅的な断面を持つ送筆は、或いは生前の眉仙翁の血脈に通うものがあるのかも知れない。 |
|
|
現地の地図表示後、「スクロール地図」に切り替えてご利用ください |