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□相生市の文化・歴史

青木月斗句碑
矢野町瓜生 芳賀医院
現地案内板
  「くろぐろと山が囲める夜長かな 月斗」という句碑のみがあります。
在 瓜生芳賀邸
昭和31年1月8日芳賀士白建

『相生と文学碑』
 「くろぐろと山が囲める夜長かな 月斗」

秋の夜長
 この句は、昭和12年秋、青木月斗が夫人を伴って、芳賀邸の士白庵を訪れた時、「秋の夜長」と題して詠んだものです。
 秋の夜長、満天の星は今にも降り注いできそうである。磐座神社の天狗岳にちかく、羅漢石仏のある瓜生の里の夜更けは、くろぐろと蹲(うずくま)る山影の底で、物音も絶えて静まりかえっている。

青木月斗
 青木月斗のが亡くなると、士白(芳賀富士雄)は、交誼を記念して碑を建立しました。湯室月村・岸田悠居(幸雄)や月斗門下を招き、盛大な句碑開きを催しました。
 題字は青木月斗の自筆です。

 青木月斗は、高浜虚子と共に正岡子規直門の巨星として広く知られていました。
 芳賀士白(富士雄)は、青木月斗の高弟です。
 月斗(月兎)は本名新護といいます。明治12(1879)年11月、大阪の薬種問屋に8人兄妹の次男として生まれました。
 青木月斗は、父の死後、早逝した兄に代り、大阪薬学校を退学して家業を継ぎました。
 月斗は、句作を嗜む母の影響で、小さい時から俳句に興味を示し、俳句の道に専念して正岡子規に師事しました。後年、独自の句境を開きました。

 明治32(1899)年9月、月斗が俳句雑誌『車百合』を創刊した時、正岡子規は、「俳諧の西の奉行や月の秋」の句を贈っています。
 上京した月斗は、子規を訪ね、東京の俳人とも交渉を持つようになりました。
 月斗の妹が河東碧梧桐の妻に、月斗の実子を碧梧桐の養女としたり、月斗のは、碧梧桐と接近し、一時はその新傾向運動にも参加しました。
 やがて、月斗は、高浜虚子に同調し、『ホトトギス』課題句の選者となりました。

 大正9(1920)年、月斗が創刊した俳句雑誌『同人』は、昭和になると関西俳壇だけでなく、全国有数の俳誌に成長しました。月斗は、『同人』を主宰しながら、「よき句を作る、よき句を残す、これを第一義」という句作第一主義により門下を指導し、岡本圭岳・湯室月村、菅裸馬・永尾宗斥らの俳人を育てました。その作風は、おおらかで華やかで、一方では枯淡で、主観的な句も客観に徹した句も詠んでいます。
 「春暁や欄前すぐる帆一片」

 昭和24(1949)年)年3月、月斗は、奈良県大宇陀町で亡くなりました。

正岡子規と俳壇
 正岡子規は、伊予松山の人で、本名を常規といいます。東京帝大国文科を病気で中退しました。
 明治22(1889)年頃、俳譜の史的研究を志し、その俳論及び作句を新聞『日本』及び雑誌『ホトトギス』に発表しました。既成の俳趣味を打破し、清新な詩情を求め、俳句は「写生」を旨とする文学であることを主張しました。その結果、内藤鳴雪・佐藤紅緑・河東碧梧桐・高浜虚子などが育っていきました。
 江戸時代の俳句は、その後、俳諧の連句から離れて発句のみを独立に詠む傾向が進んでいました。正岡子規を中心とする改革運動以後、17(5 7 5)音の短詩形の文学を真の「俳句」と呼ぶようになりました。

河東碧梧桐
 河東碧梧桐は、本名を耒五郎(へいごろう)といいます。小さい時から、漢学者・父の知人の正岡子規に俳句の手ほどきを受けました。
 碧梧桐は、正岡子規より新聞『日本』俳句欄の選者を受け継ぎました。
 碧梧桐と虚子は子規門下の双璧といわれながら、碧梧桐は生活感情を自由に詠い込む自由律俳句(五七五調にとらわれない自由な形式)の方向に進み、虚子は守旧派として伝統的な五七五調を擁護しました。こうして、碧梧桐と虚子は激しく対立するようになりました。

芳賀富士雄
 芳賀医院長。
 芳賀富士雄は、明治29(1896)年、矢野町瓜生に生まれました。
 芳賀富士雄は、昭和10(1935)年、矢野で発足した『山野合』の熱心な会員でした。この『山野合』は青木月斗が命名しました。
 月斗と士白(芳賀富士雄)は、師匠と門人の間柄を越えた深い信頼と愛情によって結ばれていたと伝えられています。
 士白(芳賀富士雄)は、昭和57(1982)年3月、自家句集『どんど』を刊行しました。
 士白(芳賀富士雄)は、昭和62年(1987)年11月、亡くなりました。

書の解説(司波幸作)
 肉太で豊かな筆致、何の作為もなく、淡々と五七五をうまく三行に書き分ける。酒脱の字とはこれをいうのだろうか、落款の処理がまた絶妙、月を小さく斗を長く、雅印の象形文字が印象的。

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出典:『相生と文学碑』

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