唐端清太郎が造船所を設立し、鈴木商店の進出によって相生が近代化していく様子を展示しています。
造船を中心に工業都市として発展する相生市の様子と進水記念絵葉書などを展示しています。
相生市は中世矢野荘の領域を受け継いでいます。那波は矢野荘の産物が集まる港で市が開かれました。人々は農産物や薪・炭などを那波に運び、日用品を購入して帰りました。昭和前期まで、薪や炭は阪神間に出荷される重要な商品でした。
明治21年、旧矢野荘に矢野村・若狭野村・那波村・相生村ができます。明治26年、四ヵ村は共同で鶴亀高等小学校を設立しました。各村の高等小学校設立にともない鶴亀高等小学校が解散すると、鹿鳴館風の校舎は若狭野村の村役場に転用されました。
明治25年、唐端清太郎は相生村長に招かれ、大正2年、町制をしくまでに村を発展させました。明治36年、県会議員、大正7年、代議士に当選します。水産業の振興につとめる一方、明治40年、播磨船渠を創立し町の未来を小さな造船所に託しました。
明治42年、完成直前の船渠が崩壊しますが高橋為久が事業を再建、明治45年、船渠を完成させました。完成した船渠は、長440呎(フィート)、幅73呎、6000総トンの船が入渠可能でした。村人は船渠を「わしらのドック」造船所を「ハリマドック」と呼びました。
高橋為久は神戸の海運資本と提携して播磨造船株式会社を設立します。岡崎汽船の日英丸の入渠に続き、巨船が姿を現し村民を驚かせました。巨船を見上げながら、小さな帆船が港へ向かいます。播磨造船は6000トンの船渠を有する修繕専門の企業で、従業員は100人〜300人でした。
第一次世界大戦中、唐端清太郎は事業拡張を条件として鈴木商店に播磨造船の買収をもちかけます。大正5年、鈴木商店の金子直吉は播磨造船を買収し、播磨造船所と改称しました。相生に進出した鈴木商店は膨大な資本を投下して造船所を拡張します。
播磨造船所は大型新造船の建造に進出しました。第一次世界大戦中、日本は鋼材が不足し、米国から鋼材を受け取る代わりに船舶を米国に引き渡す契約を結びます。大正7年に進水した本船は船鉄交換船として米国に輸出されました。
6000人に増大した従業員の住居を確保するため、造船所は社宅街を造りました。相生で青春時代を過ごした佐多稲子は「造船所の一つをもとにまるで町をでも造るほどの意気込みに見えた。何もなかったところに新しく町の出来てゆく過程は不思議みたいであった」と書いています。
明治23年、山陽鉄道那波駅が開業しました。明治39年に国有化され、造船所の興隆とともに乗降客が増加しました。昭和17年の市制実施を機に相生駅と改称されています。機関車は8620型テンダー式蒸気機関車。乗客は着物に靴、振り分け荷物を肩にしています。
相生を拠点に阪神・相生・小豆島・高松を結んでいた松田汽船の三国丸。春先になると白装束のお遍路さんも三国丸で四国に向かいました。
造船所の事務課長として赴任した北村徳太郎は幼児教育を重視し、大正7年、東京高等師範学校倉橋教授の指導のもと、藪谷に済美幼稚園を設立しました。後列左から林彦一、北村徳太郎。彼らはロシア革命に衝撃を受け、資本主義のあり方を模索していました。
造船所は売店組合・播磨劇場など厚生施設の建設を進めました。播磨病院は、大正6年に造船所附属薮谷医院として開院し、大正11年に播磨病院となりました。それから一世紀にわたり播磨病院は相生の医療の中核を担っています。
大正11年、従業員長崎県人会の提案で漁船でペーロン競漕が始まり、大正12年にペーロン船を建造しました。ペーロン競漕は、戦前は5月27日の海軍記念日に造船所の海上運動会として開催され、戦後は港祭り・ペーロン祭りとして行われています。
大正13年、相生町は遠浅の松の浦を埋立てに着工しました。海岸線は、左から双子島、磯際山麓の社宅、海事館です。双子島の小さい方の島に弁天神社があります。大きい方の島は戦時中に取り崩され、現在は商工会議所になっています。
昭和4年、播磨造船所は神戸製鋼所から独立しました。それから30年にわたり、播磨造船所は本社と主力工場を相生におき、相生と盛衰をともにしました。
昭和6年に進水したィ海は相生で建造された最初の本格的な軍艦です。建造中に満州事変が勃発しましたが契約どおり中華民国に引き渡し、寧海は長江警備の任務に就きました。
昭和6年、那波は町制を施行しました。那波港は阪神間に薪などの燃料を積みだす港として賑い、海岸には薪が積み上げられて出荷を待っています。この頃、那波町と相生町は造船所を核として結びつきを強めていました。
昭和14年、揖保川から取水して上水道が完成しました。景気の回復とともに播磨造船所の生産が増え、那波・相生の一体化が進みました。造船所が那波町と相生( おう)町を仲介し、二つの町は併して相生(あいおい)町が誕生しました。
戦時体制のなかで人口が増加し、昭和17年に県下9番目 の市となります。西播磨では、姫路・飾磨に次いで三番目 の市でした。相生市は市立相生高等女学校・市立相生造船工業学校 を設立し、中等教育の充実を図りました。
太平洋戦争が始まると海軍は簡易造船所を作り、播磨造船所松の浦工場としました。工員として捕虜・刑務所・生徒などが動員され、本社工場とあわせて二万を越える人々が働きました。松の浦工場は戦時標準船を月産十隻以上のペースで量産しました。
戦時中、急増する工員のため、造船所は市内各地に寮を建設しました。若狭野寮は半島からの応徴士の宿舎として建設され、若狭野農園は上郡農学校の生徒などを動員し食糧増産を目指しました。この地域は、戦後、緑が丘という住宅地になっています。
那波野出身の河本敏夫は三光汽船を再建し、海運の企業集約に加わることなく三光汽船を大手の海運企業に成長させました。三光とは「陽光・月光・星光」をいい、戦後の再出発にあたり、陽光丸と星光丸が相生で建造されています。
昭和26年、出光興産は、播磨造船所で日章丸2 世を建造しました。昭和28年、出光興産は日章丸を極秘裏にイランへ派遣、同船はガソリン・軽油を満載して帰国しました。小説「海賊と呼ばれた男」で活躍する船が、この日章丸です。
戦後、日本は大型船の建造を禁止されていました。昭和26年、日本水産はトラック島に沈没している図南丸の浮揚を播磨造船に依頼します。4月15日、トラック島から曳航されて相生湾に到着した図南丸は「海の魔城」のようでした。
昭和26年10月18日、半年にわたる修繕で蘇った図南丸は、市内の小学生や市民の打ち振る日の丸の小旗に見送られて南氷洋に旅立ちました。図南丸は春になると相生に立ち寄ってアラビアに向かい、秋には相生で捕鯨船団を組み南氷洋に向かいました。
左の船は日本水産の捕鯨母船図南丸、右の船は進水したばかりの飯野海運のスーパータンカー剛邦丸です。剛邦丸は28400総トン、43000トンの原油を搭載できる、当時日本最大のタンカーでした。
昭和33年、播磨造船所は播磨船渠創立から数えて50周年を迎えました。この頃、造船所は総合事務所・播磨病院 ・相生球場などを新しく建設しました。昭和32年、播磨造船所は本社を東京に移転、昭和35年、石川島と合併して石川島播磨重工業になります。
昭和29年、相生市と矢野村・若狭野村が合併し、中世矢野荘の領域が再統合されました。市域南部が造船所とともに発達した様子がわかる写真です。この地で育った映画監督浦山桐郎は「相生は土着と近代が相剋するおもしろい町」と表現しています。
播磨生協は、戦後、造船所の職域生協として発足し、市内各地に店舗を配置した有力生協に成長します。昭和35年、播磨病院が移転した跡地に、小デパート形式の中央総合店舗が開店しました。
本町商店街は大正時代に社宅の売店組合として発足し、戦後、市内で最も人通りの多い商店街になります。昭和36年、アーケードが完成して歩行者道路となり、商店街は夜まで賑わいました。また、夏の一六夜店は市民の楽しみでした。
昭和37年、市制20周年をむかえて中央通り側に新庁舎が建設されました。12月20日、庁舎竣工記念式典での小学校の鼓笛隊です。この年から昭和39年まで、石播相生第一工場は単一工場として世界一の建造量を記録しています。
右下は、大正時代の同じ場所の写真です。苧谷川には松並木が続いていました。昭和33年、苧谷川の流れを西に移して中央通りが開通、昭和42年頃になると自動車が増え、商店が並ぶ様になりました。
昭和26年に赤穂線が開通、昭和34年に山陽本線が電化、相生駅は急行列車の停車駅に成長しました。駅前には、列車の到着にあわせて神姫バスやタクシーが並び、造船所に通う従業員のための自転車預かり所が多くありました。
駅前楠の大木は切ると祟りがあるといわれていましたが、昭和43年、双葉中学校に移植され、相生駅は新幹線と在来線の停まる橋上駅に変わりました。昭和46年10月、山陽新幹線の試運転が始まりました。写真は、相生駅に到着したドクターイエロー。
昭和46年、試運転中のドクターイエロー。昭和47年、山陽新幹線の新大阪・岡山間が開通し、相生と東京は4時間で直結されました。
昭和48年、皆勤橋を渡るペーロン祭りのパレード。IH I 家族会が揃いのゆかたで踊る新作ペーロン踊りです。昭和38年、相生みなと祭りが相生ペーロン祭りと改称されパレードが始まりました。この頃はブラスバンドを先頭に皆勤橋を渡り市内を行進しました。
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