旧若狭野村下土井にあった水守分家の屋敷。水守家・水守分家は代々医家で、亀之助も初め医学を学びますが、途中で文学を志しました。
作家として活躍していた頃に亀之助が故郷に帰ったときの写真で、立っているのが亀之助です。
水守亀之助は大正中期に新自然主義の作家として華やかな作家生活をおくり、雑誌『新潮』の編集者として川端康成ら多くの作家を育てました。
1897(M30)年、鶴亀高等小学校に入学し、校長岡虎十郎・教員光葉(こは)十郎の先進的な教育に接します。高等小学校を卒業すると、大阪の医学校に入学しますが腹水病で帰郷、療養中に龍野中学生の三木露風・小犬丸の内海泡沫と知り合いました。
1903(M36)年、17才の亀之助は再び大阪に出て雑誌や新聞を創刊します。そして、1906(M39)年、借りた汽車賃だけを持って上京、下宿を転々としながら投書家の青年たちと交流し、自然主義文学の旗頭田山花袋(かたい)を師としました。花袋のもとでの「空想を排して現実を描写する」研鑽が大正中期の亀之助の作品に結実していきます。
1916(T05)年、亀之助は菓子製造で成功していた新免家の婿養子となり、翌年、祖母の死とともに水守分家は下土井から消えました。1919(T08)年、亀之助は『新潮』の編集に加わります。上京当時から苦楽をともにしてきた中村武羅夫・加藤武雄・水守亀之助は「新潮三羽烏」と称される名コンビでした。編集者としての亀之助は新人の発掘にすぐれた眼をもち、東大在学中で無名の川端康成を『読売新聞』で賞賛、『新潮』に評論を書く注文をします。これが、康成が得た最初の原稿料でした。
新潮社に入社した年、亀之助は「小さな菜畑」「帰れる父」を発表し好評を得ます。この二作をもって亀之助の文壇的評価は定着しました。亀之助は虚構を加えずできるだけ事実に即して人物像を書きあげるという手法をとっており、作品から水守家の人々を復元することができます。
祖父、水守立節(りゅうせつ)は医家水守分家の二代目として生まれ、医師のかたわら自由民権運動を支持した政治好きであり、武芸・和歌・芝居など多くの趣味をもつ、わがままな専制君主でした。父、達也は俊才をうたわれ赤穂出身の自由党代議士柴原政太郎にしたがって政治運動に入りますが、柴原の没落とともに転落が始まり放浪のすえに46才の若さでその生を終えます。達也の放蕩(ほうとう)によって水守分家は没落し、祖母しげは水守分家の稲荷堂に一人住まいしながら、孫の亀之助に水守分家の再興を託していました。
「樹を伐る」は祖父立節の死をむかえた家族のありようを、「帰れる父」は放浪から尾羽うち枯らして帰宅した父達也を、「小さな菜畑」はひとり稲荷堂に住む祖母しげを描いています。これら水守作品は「血族もの」と呼ばれます。
1937(S12)年、亀之助は長い沈滞のあと『野火(のび)』を創刊します。その年の晩秋、久しぶりに帰郷した亀之助は水守家が開いた興福庵の廃庵跡の桜の若木から「自分のなかに流れる血はこの郷村と結びついている」ことを悟ります。亀之助は枯草(退廃しつつある都会の旧文化)を野火(新鮮な野趣・地方的活力)によって焼きつくし清新な文化を育てようとしたのでした。
思ひ出の断片 水守亀之助
私がハ洞尋常小学校へ通学したのは、今から凡そ四十年も昔のことになるから、はっきりした記憶は非常にすくない。しかし、私は学校といへば八洞と鶴亀としか通ったことがなく、他は独学だから、小学校時代 が一番 なつかしく、恩義を感ずることも亦、一としお深いわけである。私には小学校時代にうけた恩師の教育が 、一生を支配する基本的なものになっていることを痛感し、常に感謝している。
八洞時代のことを考へると、栗原(賢治)先生の赤いおヒゲが先づ浮んで来る。矢野(幸信)先生の蒼白いお顔が浮んで来る。その他の先生方も覚えているが、お名前は大抵忘れてしまっているようだ。
日清戦争の記憶がある,どういふわけか寺田の中西上等兵が出征されたことを覚えている。あの方は、ずっと前に亡くなられたと聞いている。日清戦争の石版刷りの絵を祭典や、イカルガの御大師へお参りしてよく買ったものだ。遊戯は女竹でつくったつき鉄砲で盛んに戦争ゴッコをやった。
校舎は、もう可なり古かったらしく、雨漏りがしたり、屋根が壊れたりしていたように思ふ。前に瓦師さんがいて、田甫の土で瓦をつくっていた。校庭も雨がつゞくと瓦になる粘土がぬかるんで困ったが、それをこねくり廻すのが面白かった。今でいう手工を科外にやっていたわけである。
矢野や那波との連合運動会はいつも、天神山の広場で催おされた。私などは、亜鈴体操をやった。実際に緊張した気持で、胸をふるわせながら臨んだものだ。スボーツ精神は、その頃の鼻垂小僧にも旺盛であったと見える。学校へ初めてあがった時、お化けのように偉大なソロバンがかゝっているのにびっくりしたことを覚えている。
ハ、ハナ、ハトといった風に挿画と一緒に書かれたこれも大きな帳面のような教授用の教科書にも驚いたがその鮮麗な色彩を施した絵は、何ともいえぬ魅力をもって私の心をひきつけた。わけても、果物などは、とって食べたいような誘惑を覚えさせた。それから、私は、絵画が好きになったように思う。
その頃は私の家なども、夜はカンテラを入れた行燈を使っていた。学校へ通うには草履や、ハダシであった。弁当は白い御飯であったが、ちょいゝ麦が交っていた。その御飯の中に太陽のように異彩を放つ梅干が
、まわりを紅に染めていた。私は、未だにそのおいしい味わいを忘れない。それによって今日の健康をつくったのだ。 いや、健全な精神を!
洪水が出ると、始終橋が落ちた。アユビを二枚わたしたような名ばかりの橋だから無理はなかった。そのために私達は遠廻をしたり、少し、水がひくと、鞄や、衣服を頭にのせて、顎近くまで水につかりながら渡ったものだ。
こんなことを書きつヾけていると際限がないから、もう止めるが、私は、今でも小学校の先生が一番えらい人のような気がしている。今では友人に大学教授や、博士が沢山あるが、そんなにえらいとは思わない。だが
、小学校の先生にはいつも頭が下る。昨年の秋、鶴亀時代に親しく薫陶をうけた奈良の高田十郎先生が私の家へ来て一晩泊って行かれた。私が「先生!先生!」といふと、先生は「止せ!止せ!」と磊落な調子でお叱りになった。しかし、私は矢張「先生」と呼ばずにはいられない。
人間は、小学校時代のことを忘れなければ堕落などはしないのではないか知らと、私は時々考えることがある。つまり童心を失はないで、先生の教へをすなおに守るといふ精神が肝要であるからだ。
(二月十四日夜認む)
読みやすくするため、仮名遣いと漢字を、現在のものに改めています。
校歌 水守亀之助作歌 石井五郎作曲
義士の勲は今もなほ ゆかりに匂ふ若狭野に
齢ひ重ねし学舎は 実に我が郷の花ならん
野山の幸に恵まれて すめらの国にたゝへつゝ
教への庭にいそしめば やがて果たさん民の道
空の彼方を眺むれば 瀬戸の海原なぎ晴れて
希望の色に輝けり いざやつとめんもろ共に
昭和10年3月10日作
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