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搦手曲輪
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(2)石垣の現状
I搦手口
 今、崩落が進んでいる区域である。ほとんどの石垣が乱れている。特に、現在通路となっている周囲の石垣は、落下寸前にある。しかも、高い石垣で構成されており、近付くのは極めて危険である。立入禁止などの措置が必要であろう。これ以上破損しないような整備も急がれる。

J搦手曲輪
 大手同様、周囲を石垣で固めた、総石垣構えであったと考えられる。上部にある小曲輪は、西の切岸が高さ4.5mで、延23.5mあり、東の切岸も、この曲輪よりさらに北方まで延ばして、延長25.0mを積んでいる。
 比較的急な谷の狭い地形で、面積を広く取れないにもかかわらず、高石垣を築いてでも、曲輪を構える必要があったのであろう。城道は、搦手口から直進せず一旦北に折れて、東上していたものと思われる。現在の山道とは異なっている。
(4)縄張りの概要
(3)搦手口の構造(図表15)
 搦手門部分について感状山城跡地形図では、その上の出曲輪やV曲輪との通路は描かれていなかった。調査の結果、出曲輪の南東隅の部分からスロープ状の通路がつづら折りに続いていることを図表15のように確認した。
 一方、搦手から北西方向に谷へと下っていく通路については、通路状の遺構は現地で山麓部分まで続くのを確認したが、城に伴うものか明確に判断できなかった。
 この通路部分は尾根の浅い谷状地形となり、地山の礫が堆積して通路には適さない。そのなかに、細い溝状の通路が山麓の谷底にまで下っている。これが城の搦手になるものかはやや疑問がある。また、搦手より西側斜面を横移動する通路があるが、これも道幅が狭く、城が機能していた段階で存在した可能性は低いように思われる。
 搦手には、近代以降のものと推定される石積みの炭焼き窯の跡が残っていることから、搦手に通じるこれらのルートも近代以降に利用されたことは確実であり、城の当時に遡るかはやや検討を要する。
 また、搦手曲輪は、その西側の井戸曲輪の立地と共通することから、搦手口ではなく、本来は井戸曲輪として機能した可能性も今後検討するべきであろう。ただ、曲輪の中央部は、崩れた様な状況になっており、曲輪の中央部がその土で埋まっているため井戸が存在したかを確認することが出来ない。今後のさらなる調査が必要と考えられる。

参考資料1:『史跡赤松氏城跡感状山城跡保存管理計画策定報告書』(以下『感状山城報告書』)

出典:『感状山城報告書』

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