V曲輪 |
□をクリック(写真にリンクしています) |
(1)発掘調査の概要 (4)V曲輪の概要 V曲輪群は、標高301.05mの感状山の南西部の中腹に張り出した小台地上に位置する。1〜5の郭と西側壁の犬走りや東斜面下の大手虎口や水の手曲輪に構える帯曲輪、出郭から成り、出曲輪が付属する。 感状山山頂のT曲輪とV曲輪第1郭との高低差は、約42.8mある。V曲輪群の郭は北東から南西方向にかけて伸び、その最長距離は約97m、最長幅は約42m(出曲輪をのぞく)を測る。V曲輪群内の第1郭と第5郭の高低差は約6.2mあり、ゆるやかな傾斜地となっている。郭や帯曲輪は台地上の地山を削平して階段状に造り出し、石垣で区画されている。V曲輪群全体を支える側壁は、高さ約1.5m〜約1.8mまでの石垣をめぐらし、狭い尾根上の土地を最大限に使えるように工夫している。 |
(2)石垣の現状 DV曲輪群 V曲輪は、緩やかに南西に向かって傾斜した尾根を削平し、やや矩形で長手が70m、短手が40mの周囲を一部除いて、石垣で囲んでいる。その内側は、石垣で段差を作り、西寄りに四つの曲輪を造り、東寄りは帯曲輪、城道を形成している。 外部から直接この曲輪に入る虎口は、2段目曲輪の東にあったと推定される。しかし、現状の地表観察では、城戸の痕跡は確認できない。 4段目曲輪の西に残る虎口は幅が狭く、大手口に続く二の城戸を構えていたとは思われない(写真30)。井戸曲輪に行く水門の虎口ではなかろうか。ただし、この虎口の石積みは、工法からみると後補の可能性もある。仮に積み直しされているとすれば、再考しなければならない。 大手口から北西に直線的に延びた道は、外郭の石垣に突き当たり、北東に折れ20mほど石垣に沿って西北に上り、左折して二の城戸を潜っていたものと考えられる。この位置であれば、櫓門の建つ余地も十分である。 発掘調査によると、2段目の東に門跡があったとある。この部分は、現況の観察では、ほとんど石垣は認められないが、あるいは虎口空間を形成する石積みがなされていたのかもしれない。総石垣であり、城道が一度曲がって虎口に入るように工夫されていることから、虎口を防禦するため、石垣で単純な虎口空間を造っていたとすれば、永禄年間から天正にかけての比較的早い時期の縄張りであったとも言えよう。発掘の成果が待たれるところである。 1段目曲輪 前述のように、南は埋もれて定かでない。2段目との境である北や、西側の一部(北へ4mほど)には、高さ0.8mの小さい割石を3〜4段積んだ石垣があった(発掘調査報告書)。東も発掘により、高さ2.0mの石垣が確認されている。この北寄りには、虎口があった可能性がある。この西の石垣は、やや弧を描いて南西に延び、3段目曲輪の南西隅まで達している。延60mの長さである。 2段目曲輪 南に高さ0.8m、延29.0mがあり、西も高さ0.8mの石垣が延20mあったと考えられる。西がT曲輪と連結していたとすれば、この2段目の曲輪だけ、他より東に突出していたことになる。 3段目曲輪 この曲輪群で最も小さい。2.4の曲輪より凹んでいるため、構矢掛のような縄張りになっている。南西隅に幅1.5mの虎口がある。石垣は他と同じように、高さが0.8mで延35.0mが築かれていた。発掘調査で甕群と建築跡が検出され、この曲輪には食糧を保存する倉が建っていたことが判った。 4段目曲輪 西に石垣はない。2列の礎石列が検出されているが、その位置から判断すると板塀であった可能性が高い。南西隅には土蔵があった。調査報告書の写真を見ると、遺構が全く乱れていない。特に、南の桁行方向は大きい礎石と小さいものが交互に据えられ、柱位置が明確に判る。また、梁間方向の東側も柱の位置が判断できる。また、建物の中央に柱が建っていたことも判り、各間の中央通りに梁が架かる構造の建物であったことが推定できる。礎石の周囲に甎がめぐらされているので、建物は大壁構造であろう。発掘図から柱の径を考慮して、建物の規模を推定すると、桁行が25尺9寸になる。梁間は南で22尺6寸、北側で22尺1寸を測り得る。柱礎石の配置から、桁行が6間、梁間が4間だが、桁行と梁間で柱間 寸法が違うことになり、奇妙である。推論を進めると、1間を6尺4寸7分5厘として、桁行を4間、梁間を3間半に計画して、桁行と梁間をそれぞれ6間と4間に割り込んだのではないかと考えられる。梁が小さい場合、あるいはスパンが大きい場合、中央に柱を建てるのだが、この中央の柱にかかる梁を受けるための柱が側通りに必要となる。このため、梁間を隅数間に割り込み直さねばならない。このような構造計画はよくある伝統的な手法である。しかし、桁行はもともと4間で計画しているのであるから、6間にする必要はない。明確な理由は不明だが柱や梁等の構造材が小さかったためとしか考えられない。 甎がないことや柱礎石がずれていること、また布石も残ることから、出入口は東側通りの中央間であったことが明白である。 この曲輪は、逆L字形をしており、南西隅に東から出入りする土蔵があって、西と南側に石垣がなく板塀をまわしていた。東側は雁行して石を積んでいる。5曲輪境の中央部分に虎口があった。 5段目曲輪 南側の切岸に石垣はなく、帯曲輪と接する東側に低い石垣が積まれている。高さ80cmで、総長さが32.0mである。この曲輪の性格は定かでない。 |
参考資料1:『史跡赤松氏城跡感状山城跡保存管理計画策定報告書』(以下『感状山城報告書』) |
|
出典:『感状山城報告書』 |