大手門・水の手 |
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(1)発掘調査の概要 (6)大手虎口と井戸跡の概要 南斜面にある大手虎口跡は、標高301.05mの感状山より南西に伸びた尾根の付根部にあるV曲輪群の東斜面下にあり、標高約230m〜240mの間に位置する。背後には、3つの郭を配置した水の手曲輪があり、大手虎口への備えを兼ねると共にV曲輪や南曲輪群への通路を押える役目も果たしている。 大手虎口跡は総石垣造りで、石段を中心に左右に横矢掛りをもうけた郭を配置し、犬走り、虎口、溜井戸を中心とする水の手曲輪から構成されて、規模は東西の全長約35m、南北の全長約21mを測り、感状山城跡の虎口の中では最も大きく念入りに造られている。 |
(2)石垣の現状 F大手門跡、水の手曲輪 大手門跡といわれる虎口は、幅が2.9mもあり、高低差1.8mを9段内外の石段で登ったと思われる。登り切った位置に門を構えていた。門を過ぎると城道はすぐに右折し、10mほどで左折して、二の城戸に向かったと思われる。虎口には、東西に築かれた高さ2.3mの石垣に沿って進入したと考えられ、一種の馬出しの構えである。石の面に加工痕があり、石使いの工夫もあることから、ある程度発達した過程の虎口であったと思われる。この東西に延びた石垣は、余り高くないので、櫓はなく、単なる門構えだけであったと思われる。 大手門のやや北に大小の曲輪があった。小曲輪の石垣は、東と南の切岸側に築かれている。大曲輪はこの小曲輪を包み込むように囲い込んで、石垣が積まれている。この虎口は城道に画していたと思われるが、場所は定かでない。大曲輪を過ぎると、城道は東北に折れ、二の城戸に向かう。この南西から東南の城道の東南切岸にも、低い石垣があった。 水の手曲輪の谷にも土留的なもの、あるいは井戸に行く城の石垣があったが、ここも詳細は明白でない。 現況の地表観察では、これ以上の詳細は不明である。 |
(3)縄張りの概要 (2)大手口からの通路(図表14) 大手口からの通路については、現在、大手門を入って右側を回りV曲輪の南東の小規模な虎口からV曲輪内へ入っていた。しかし、この小規模な虎口は、大手門内側の井戸との連絡通路とみられる。むしろ、V曲輪南東側の石垣に沿って北東へと登る幅の広い通路を通り、V曲輪東の隅から入るのが、本来の大手道と考えられる。 また、現在は大手門から井戸へは直接登ることができるが、本来は井戸へはV曲輪の南東の小規模な虎口からのみ連絡していたと推定される。井戸曲輪と大手口ルートとは完全に分離していたと推定される。 一方、南西方向に延びる尾根から物見岩へ直接のぼるルートもあるが、こちら側には大手門のような明確な虎口は確認できない。さらに、最初にV曲輪に対して比較的高所な物見岩に取りつくことにより、その後の城内での防御を困難にしている。これらのことから、南西方向に延びる尾根から物見岩へ直接のぼるルートは、城が機能した時代には城道として使われていなかったか、補助的なルートであったと想定される。 |
(4)縄張りの概要 (6)城までのルート(図表18) 以上の調査成果により、感状山城は、城内移動のルートと曲輪が機能分化した縄張りを有し、戦国時代でも後半の縄張り技術で構成されていると評価できる。外部から城内へ入るルートは、大手口と搦手口、さらに北側尾根続きの三箇所に大きく分けられる。そのなかでも、大手口が石積みで両脇を固めた虎口を有し、物見岩などへのルートも本来は、大手口へと収斂(一か所に集める)していた可能性が高いと考えられた。 |
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参考資料1:『史跡赤松氏城跡感状山城跡保存管理計画策定報告書』(以下『感状山城報告書』) |
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出典:『感状山城報告書』 |