home back next

感状山城の歴史的位置(2)

下剋上時代の西播磨(1566〜1571年)
 永禄8(1565)年、龍野赤松氏の赤松政秀は、室津の室山城の浦上氏を倒しました。
 永禄9(1566)年、毛利氏は、尼子氏を倒して、美作から播磨に勢力を拡大します。
 永禄12(1569)年、天神山城主の浦上宗景の武将・宇喜多直家は、織田信長や西播磨の赤松政秀と結び、主家・浦上宗景を倒すべく挙兵しました。
 同年5月、赤松政秀は、青山・土器山合戦で黒田職隆・孝高親子と戦い、敗北しました。この機会に、浦上宗景は、赤松政秀の龍野城を攻略しました。孤立した宇喜多直家は、宗景に降伏を申し出て、許されました。
 元亀2(1571)年6月19日付の浦上宗景の奉行衆連署状(『海老名文書』)によると、龍野の赤松氏及び既に赤松側にある室の役所と交渉し、浦上方は那波を静め、赤松方は室を静めて、事件を裁こうとしています。
 ということは、天文16(1547)年までは龍野赤松氏の支配下にあった矢野荘那波周辺が、1571年には備前浦上氏の支配下になっていたことがわかります。

下剋上時代の西播磨(1573〜1577年)
 天正元(1573)年、天神山城の浦上宗景は、毛利氏の播磨進出に対抗して、織田信長に出仕しました。
 龍野赤松氏の赤松政秀も、浦上氏との対抗上、毛利氏と講和しました。
 天正2(1574)年、宇喜多直家は、浦上宗景と不仲の安芸の毛利氏と結んで、浦上政宗(浦上宗景の兄)の孫・久松丸を擁立して、再び、浦上宗景に対して挙兵しました。
 天正3(1575)年、宇喜多直家は、浦上宗景の武将・明石景親らを内応させ、宗景を播磨国に退けることに成功しました。その結果、直家は、備前・備中の一部・美作の一部を支配下に納めました。
 天正5(1577)年9月、毛利と組んだ宇喜多直家は、浦上宗景の武将・明石景親の助けを借りて、城に火を放ち、その混乱に乗じて、城内に宇喜多勢を引き入れ、ついに難攻不落の天神山城を攻略しました。さらに、直家は、播磨に侵攻し、佐用郡の上月城・福原城、赤穂郡の有年城を落とし、佐用・赤穂両郡を支配しました。
 その結果、備中・美作を支配下に入れ、龍野赤松氏も毛利の支配下に入りました。

下剋上時代の西播磨(1567〜1580年)
 天正5(1577)年11月、織田信長の武将羽柴秀吉は、宇喜多直家に属する上月城を攻略しました。毛利氏によって滅ぼされた尼子氏の残党・尼子勝久や山中幸盛ら3000の兵が上月城の防衛を任されました。
 天正6(1578)年4月、毛利輝元率いる6万の大軍は、上月城に向かって進軍しました。三木城を攻撃中の豊臣秀吉は、織田信長の命で約2万の兵を率いて上月城の支援に向かい、高倉山に駐留しました。
 同年6月、豊臣秀吉は、兵の多寡には抗しがたく、援軍を求めて、京都の織田信長に直訴しました。しかし、信長の命は、「三木城の別所長治を討つべし」というものでした。
 同年7月、尼子勝久らは自刃しました。山中幸盛は捕虜となり、後に備中国成羽で殺害されました。その結果、毛利方は上月城を奪回し、宇喜多勢が入城しました。
 天正7(1579)年、宇喜多直家は、織田方に寝返り、西播磨の佐用・赤穂両郡を手中に入れました。
 天正8(1580)年、豊臣秀吉は、知行割に行い、宇喜多直家の佐用・赤穂両郡支配が黙認されました。

下剋上時代の相生(1571〜1579年)
 激しい下剋上の戦いをしている西播磨にあって、相生の状況はどのようになっていたのでしょうか。
 岡豊前守は、下土井城主として重視されています(『岡城記』など)。
 岡豊前守は、知行高の第2位4万2502石とあります(『浮田家分限帳』)。
 つまり、矢野の在地領主の岡豊前守は、浦上氏、宇喜多氏に従って知行を与えられ、特に宇喜多家中では重臣に成長していたことが分かります。
 元亀2(1571)年以前、浦上氏の支配は、矢野荘域に及んでいました。
 元亀2(1571)年当時、宇喜多直家は、浦上氏から支配権を奪っていました。それ以後、矢野荘城は、宇喜多の支配下に入りました。
 天正7(1579)年まで、毛利氏と織田氏の二大勢力は、西播磨一帯で、つばぜり合いを西播磨一帯で演じていました。
 天正7(1579)年以後、織田氏は、西播磨一帯を支配しましたが、版図の東辺防備のために矢野荘附近が重視されました。その結果、この地の在地武士に対する異常に高い評価となったのでしよう。

感状山城の歴史的位置
 柱間および石垣技法という技術史からみて、16世紀末である天正・文禄年間、歴史的にみて天正5(1577)年・天正6(1578)年以降と比定されつつあります。
 龍野赤松氏、備前浦上氏、宇喜多氏がはげしく対立、織田軍である秀吉勢が西播磨の諸城を攻略した時期、およびそれ以降のいずれかに感状山城の現状遺構が成立したといえます。
 感状山の山頂部を中心とし、南へのびる稜線上(馬背上の上部)の遺構で、近世城郭でいう本丸(T曲輪)と二の丸(U曲輪)にあたります。
 海抜301.05メートルの山頂部平場がI曲輪で、東西21メートル、南北27メートルのひろさ、東と南側に約2メートル低く帯曲輪がめぐっています。
 石垣は内側斜面が保存状況が良好で、自然岩盤もふくめて巨石が積まれています。曲輪内には、礎石および建物壁面遺構とみられる列石状遺構があり、虎口は西南側に坂をともなっています。
 I曲輪北西側に三ないし四段階から北曲輪群が存在し、西南斜面に井戸(円形石組)があります。

参考資料1:『史跡赤松氏城跡感状山城跡保存管理計画策定報告書』(以下『感状山城報告書』)

出典:『感状山城報告書』・『相生市史』第四巻

home back next