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□相生市の文化・歴史

石井直樹歌碑
那波 大島山城跡
現地案内板
 「おほぞらに ただよふくもの しらくもの さびしき秋に なりにけるかな 直樹」
昭和十二年水甕赤穂支社社中建

  石井直樹歌碑
 おほぞらに ただよふくもの しらくもの
 さびしき秋に なりにけるかな   直樹
 『水甕』の歌人国文学者石井直樹(本名直三郎=一八九〇〜一九三六)の代表作。姉の嫁ぎ先岡田家があり、『水甕支社』のあったこの地を時おりおとずれた。
 歌碑は、昭和十二年、縁故者門人たちによって建立されたもの。自筆。
昭和六十年四月七日
市教委・文学碑協会建

『相生と文学碑』
石井直樹(直三郎)
 石井直樹は、明治23(1890)年7月、岡山県小田郡矢掛町で生まれました。醸造業を営む父・始三郎は北石と号し、母の弟・源三郎も桐陰と号し、共に漢詩に優れていました。
 石井直樹は、第六高等学校(岡山)を主席で卒業し、東京帝国大学国文科に進学しました。
 石井直樹は、大正元(1912)年、日夏耿之介・西条八十・長谷川潔・伊藤六郎らと文芸誌『聖盃』を創刊しました。
 石井直樹は、大正2(1913)年、同郷・同学の先輩である尾上柴舟の歌誌『車前草』に入会しました。
 石井直樹は、大正3(1914)年、歌誌『水甕』の創刊に携わりました。これを尾上柴舟が主催しました。
 石井直樹は、大正9(1920)年、第八高等学校(名古屋)の教授となり、就任前からあった八高短歌会を指導し、安部忠三・加藤将之・風巻景次郎・五島茂・児山信一・松原三夫・山崎敏夫らを指導しました。
 石井直樹は、大正14(1925)年、『青樹』を主宰創刊しましした。
 石井直樹は、昭和2(1927)年、岩谷莫哀が亡くなると、松田常憲とともに『水甕』の編集に当りました。
 石井直樹(47歳)は、昭和11(1936)年4月、亡くなりました。

 第六高等学校で同寮の萩原朔太郎は石井直樹について、「温厚篤実の人格者であり、極めて健全な調和的気質の人で、風貌は長者の相をおびていた」と言っています。
 尾上柴舟は弟子・石井直樹について、「明瞭透徹にして一片の哀愁のある君の詩風は、誦する者これによって心性の清澄を覚ゆ」と述べています。
 
 山幾重夕山いくへ啼かぬ鳥 さびしき鳥の落ちて入る山
 鳩鳴くや月のしたびにたたえたる 水は輪となりはてなかりけり

水甕支社
 石井直樹(直三郎)は、長姉の嫁ぎ先である岡田家があり、「水甕支社」のあった那波の地をたびたび訪ねています。
 岡田要の甥・岡田牧穂ら多くの青年は、当時既に著名であった直樹を慕ってその教えを受けています。
 石井直樹(47歳)は、昭和11年、亡くなりました。
 昭和12(1937)年、石井直樹縁故者・門人が集まり、大島山頂に歌碑を建てました。歌碑の内容は、相生と関係ありませんが、直樹の遺風を象徴するとして、この歌を選びました。

懐かしい面白い追憶(尾上柴舟)
 石井直樹(直三郎)が師事した尾上柴舟は、追悼録『氷屋、鮨屋、牛肉屋』で次のように書いています。
 「その晩は後藤君の家へ一行が泊った。急に多人数になったので驚いたのは後藤君の奥さんであらうと思ふ。しかし二階に狭いながらも寝る事になったが、この二階は諏訪山公園のライオンの檻に向ってゐる事を記憶して戴きたい。ラィォンの吼聲は、晝はさほどに思はなかったが、夜になるとかなり凄いものである。‥‥その間に天井で鼠が荒れ出した。これも一方ならぬ騒ぎである。
 陽気ではあるが堪へられない。この両方面の響の間にまた聞え出した奇異な響きがある。これがまた甚だ太い、重い、厚い、凄いものである。石井君のいびきのそれである。ライオンと鼠と君と、時に二者混合し、連續し、時に三者重畳し、融和し、異種の聲調、それが果しもなく續くのであるから、眠らうとしても眠られない。と云って寝た人を起すのも無情である。どうしたらよからうと思ってゐる中に、ライオンも眠り、鼠も疲れたと見えて、やっと響が止んだと思ふと、不意に石井君のも静まった。よくかやうに一緒に初め一緒に止められたものだと今でも不思議に思っている」。

尾上柴舟
 尾上柴舟は、明治9(1876)年、津山町で生まれました。本名は八郎といいます。
 尾上柴舟は、明治34(1901)年、東京帝国大学国文科を卒業後、東京女子高等師範学校(今のお茶の水大学)・学習院・早稲田大学などの教授を歴任しました。芸術院会員にも選出されました。
 尾上柴舟は、和歌を落合直文に師事し、明治38(1905)年、『車前草』を創刊しました。若山牧水・前田夕暮・三木露風・有本芳水らが入会しました。
 尾上柴舟は、大正3(1914)年、石井直三郎らが歌誌『水甕』を出すと、これを主宰しました。
 尾上柴舟は、昭和32(1957)年、亡くなりました。

岡田要
 岡田要は、明治24(1891)年8月11日、相生市で生まれました。
 岡田要は、東京帝国大学を卒業後、欧州各国で研究を続けました。
 岡田要は、昭和12(1937)年、東京帝大の教授に就任しました。教授時代、発生生物学の分野で優れた業績をあげ、門下には多くの学者が生れました。
 岡田要は、様々な役職につき、研究成果を発表しています。東京大学名誉教授。文化功労者。日本学士院会員。退官後は国立上野科学博物館館長を勤めた。退官前後を通じて専門にとらわれず、数々の科学分野での委員をつとめ、日本の科学研究の確立に尽した功績は頗る大きい。
 岡田要は、昭和48(1973)年12月、亡くなりました。

文学碑と筆跡(坂田聖峯)
 山形の自然石の表面に方形に字面を設け、陽刻の銅板を埋めている。歌のように字数の多い場合の、野外表現として好適な形式である。字は、曾て仮名界に君臨した尾上柴舟風で、筆跡の流麗なものである。
 仮名世界では、直線よりも曲線を多く用いて仕組まれている。漢字が複雑を表すとすれば、仮名は単純である。それだけに何処までも奇麗な線をー水の如く、底の砂の粒が数えられる程の活きをー求める。清麗一塵を留めない底の流れは、平安時代からの伝統である。
 清い心というと私達には、ちょっと届きそうもない遠い存在のように思えるが、何時も持っている心を指すのだと思う。感情の波を立てない、平静心がそれであり、仮名の世界はまた、短歌の心と相まって清を求めてやまない。

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出典:『相生と文学碑』

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