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□相生市の文化・歴史

野口雨情大島山詩碑
那波 大島山城跡
現地案内板
 野口雨情詩碑
 那波の大島椿の花は春の櫻の中に咲く
 「十五夜お月さん」「青い目のお人形」「枯すすき」「波浮の港」などで広く民衆に愛唱された野口雨情(明治十五年 昭和二十年・六十四歳没)は、昭和十一年四月、相生を訪れ、その時つくられたのが「播磨港ふし」である。
 歌詞は全部で十五節あり、詩碑に刻んでいるのは、そのうちの第七節。書は野口雨情の直筆(大島山の雨情句碑には案内板がないため、中央公園詩碑を引用し、一部変更)。
昭和60年4月
地元の那波クラブの建立。


『相生と文学碑』
野口雨情と『播磨港ふし』
 野口雨情は、『相生小唄』の作詞を相生商工会に依頼されれ、昭和11(1936)年4月、相生を訪れ、『播磨港ふし』を作詩しました。
1.ついちゃゆかれず涙で送る相生は出船の辛いとこ
2.啼いて夜ふけに千鳥が渡る沖の唐島月明り
3.相生の港はなつかし港軒の下まで船がつく
4.相生と那波とは川一筋の切って切れない町つづき
5.義士で名高い大石さまの今に残るは下屋敷
6.櫻花咲きや天神山にうすらおぼろの夜がつづく
7.那波の大島椿の花は春の櫻の中に咲く
8.相生の町中夜明けの知らせ魚市場の螺が鳴る
9.鐵のひゞきに港は榮え國のまもりの船つくる
10.播磨灘にも遠見の山の梅の花から春が来る
11.忘れなさるな山陽線の那波と相生とは軒つづき
12.播磨ゆうなぎ灘さえ静か港々はゆう焼ける
13.思ひ思ひに白帆をかけて船は遥の沖をゆく
14.波のしぶきに鴎でさえもぬれて港の沖に啼く
15.雲の蔭から雨ふり月は浜の小舟の中のぞく
    以上歌詩 昭和11年4月23日作並書

 標題は『相生小唄』となっていましたが、野口雨情自筆の原本には『播磨港ふし』となっています。
 枯れた、雅味のあるしかも流麗な独特の筆致で、巻紙2メートルを超す長巻です。雨情は新しい筆をおろすとき、いちど墨をつけて乾かし、その堅くなった穂先部分を焼いてから使ったというが、その通り太さのほとんど一定した、いかにも堅い穂先を思わせる字である。

野口雨情の人と詩
 大正中期から昭和初期にかけて、作家・雑誌編集者で、相生出身の水守亀之助は、野口雨情に関するエピソードを記録しています
 水守亀之助は、『高志人』で「三島霜川を語る」という回想記を連載しています。その第2回(昭和28年2月号)に次のような一節があります。
 「何事も起らずにすんだことは老公(山県有朋)が長寿を全ふしたことで分つてゐる。暗殺の動機目的などについては霜川は何も話さなかった。意味深長なのは『奴さんは水戸つぼだからね』といった一語である」。
 三木露風は、明治39(1906)年、雑誌『新声』(『新潮』の前身)の誌友会が縁で、三島霜川と出会いました。三島霜川は、経済的に苦しんでいる露風を自分の家に居候させました。
 上京した水守亀之助は、同年11月、龍野の三木露風を訪ねました。これが縁で、亀之助は霜川と出会いました。さらに、亀之助は、露風につれられて霜川のもとに出入りしていた野口雨情とも出会いました。

 野口雨情(21歳)は、明治36(1903)年7月、片山潜が編集・発行する『社会主義』に、「自由の使命者」という詩をのせている。『社会主義』の執筆陣は、片山潜・安倍磯雄・幸徳秋水・木下尚江などで、しばしば発禁処分をうけました。
 「自由の使命者
 貧すればこそ労働の
 ちからの海にいそしみて
 ただいそしみて生活の
 細き糊口を思ふなる
 よこしま無きが哀れなり
 いつはりの文明滅び
 新なる世期の来りて
 自由なる身とはなるなれ

野口雨情の詩情の変化
 野口雨情は、明治36(1903)年7月、片山潜ら社会主義者の編集する『社会主義』に、投稿していました。
 大正元(1912)年12月24日、山県有朋暗殺未遂事件が発生しました。
 長久保片雲『創作民謡・童謡詩人野口雨情の生涯』には、青年時代の野口雨情はアナーキストであったと書いています。
 石川啄木は、明治40(1907)年10月、日記で、「彼は其風采の温境にして何人の前にも頭低くするに似合わぬ隠謀の子なり。自ら白く『予は 善事をなす能はざれども悪事のためには如何なる計画をも成しうるなり』」と書いています。

 野口雨情は、大正7(1918)年、「枯れすすき」を発表し、その後の民謡・童謡興隆に伴い、上京して、北原白秋・西条八十らと共に活動しています。その中から、素朴な郷土的田園的情趣の深い「船頭小唄」・「波浮の港」、叙情性豊かな「十五夜お月さん」「青い目のお人形」を発表しました。

野口雨情から見た石川啄木
 野口雨情は、昭和11(1936)年4月、相生を訪れました。この頃の雨情は、俚謡風な詩と童謡が全国的に愛唱されており、押しも押されもせぬ大家でした。
 田中脩治『卜伴亭雑記』には、その時の様子を次のように書いています。ここでは、石川啄木との関係を紹介します。
 「その夜、水月旅館の‥‥机の前にちょこんと坐っている雨情を、‥‥浦山貢を中心とする数人で訪ねていった。‥‥よもやまの話がはずんだ。中でも、印象にのこっているのは、北海道へながれていった石川啄木をたずねていったときの話で、啄木の住んでいたのは、百姓家の納屋の二階で、その部屋への梯子は、屋根へ上ったり、木にのぼったりするときに使う、あの梯子であったのに、先ずおどろいた。そんなはなしをぼつりぼつりとしながら、はるばるとさいはての地までたずねていった、啄木との友情をかみしめるように泪ぐんでいた。
 その梯子を上ったところの壁に、例の
 「東海の 小島のいその 白砂に
 われなきぬれて 蟹とたはむる」
の一首が白紙にかいて、はってあって、「蟹と遊べり」を節子夫人が「蟹とたはむる」としては、というのだが、といったので、私は節子説に賛成したというような話をきいた。− かにと遊べり、は筆者の記憶ちがいかも知れない −」。

 相生に来たから50年後に発行された『野口雨情の生涯』(昭和60(1985 )年)には、この場面は次のようになっています。
 「薮の中の細い道をあっちへ曲りこっちへ曲りして訪ねていくと、納屋というより厩で、馬がいないので屋根裏に板を並べて藁置場にしてあり、そこを借りているのである。階段はなく野梯子であった。屋根裏には小さなランプが一つ点いていたが、薄暗くて顔もはっきり見えなかった。家賃は一日八十銭だということであった」。
 蟹とたはむるの話についても、次のように書いています。
 「石川さん、これでも良がんしょうが、『渚辺』は『白砂』に直した方が良いと思いやんすね。それに『遊べり』では子供っぽく聞こえるので、『たわむる』と書き直した方が良いんじゃありゃせんか、私やその方が良いと思いやんすがね」

石川啄木から見た野口雨情
 石川啄木は、明治40(1907)年9日23日の日記に次のように書いています。
 「9月23日 秋の日ホカホカと障子を染めて、虻の声閑かに、いと心地よき日なり。‥‥夜、小国君(盛岡中学次代の啄木の先輩)の宿にて野口雨情君と初めて逢へり。温厚にして丁寧、色青くして髭黒く、見るからに内気なる人なり。共に大に鮪のサシミをつついて飲む」。


◎大島山 岡田源吾を始め地元から多数参列。那波クラブ会長内田勝弘・同OB会会長福本哲夫・市長片山力夫・田中脩治が除幕。市川美恵子(X)は歌謡を、「相生児童合唱団」は童謡を斉唱。
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出典:『相生と文学碑』

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