(19)大山積命(おおやまつみのみこと)と那波(なば)浦三島社 |
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那波(なば)浦に鎮座(ちんざ)している三島社は、小千(おち)氏5代目の小千三並が神功皇后(じんぐうこうごう)の命により、飾磨郡(今の姫路市)奥山の頂上に鎮座していた三島大神を赤地向鼻(相生字甲崎)に勧請(かんじょう)したのが起こりといわれています。
地元の人は「赤地向鼻は、現在、株式会社IHIの工場内にあります」と言います。
仁徳(にんとく)天皇の命により、大山積皇(おおやまずみすめらの)大神は、安芸国(今の広島県)霧島より、伊予(いよ)国(今の愛媛県)鼻繰迫戸にお帰りになりました。
越智(おち)氏は、別名で小千(おち)氏といいます。昔より、大山積命(おおやまつみのみこと)という神の子孫と言って、早くから瀬戸内海に勢力をのばしていました。
応神(おうじん)天皇の時代には、地方の長官・国造(くにのみやつこ)に任命され、伊予国を勢力下に入れ、瀬戸内海の水軍を率いていました。
崇峻(すしゅん)天皇2(589)年に、神のお告げがあり、大山積皇大神は、播磨国(今の兵庫県)より伊予国小千郡(越智郡)にお移りになりました。小千氏(越智氏)15代目の小千益窮は大山積皇大神をお祭りしました。この時、木の枝に鏡を掛け、お祭りしました。
大山積皇大神が播磨に居たのは那波浦三島社で、そこから伊予三島社にお移りしたというのです。
以上は、相生市史(『正統那波史』・『三島宮御鎮座本録』)よりまとめました。 |
相生市旭字箆島 |
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三島神社 |
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大山
積命 |
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略 |
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小千
三並 |
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略 |
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小千
益窮 |
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略 |
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河野
親清 |
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通清 |
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通信 |
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通継 |
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通有 |
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その後の向鼻の三島社については、次のように記録されています。
保元2(1157)年、伊予守河野通清(別名は越智通清)は、伊予水軍の分師を播磨国那波郷の丘ノ台より大島にかけて築城しようとしました。その時、神のお告げがあったので、伊予三島社より太夫を連れて行き、那波荒神山へお移ししました(『正統那波史』)。
河野通清は越智一族の同族で、小千三並の子孫です。 |
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那波本町(字上ノ山)に祀る5社を総称して荒神サン又は豆煎荒神サンと呼んでいます。
そこには、三宝大荒神と三島杜があります。
三島社の祭神は大山積御祖命で、ワタツミの神(海神)とされています(『歴史講座━街道をあるく━』)。
『伊予国風土記逸文』でも、大山積皇大神は「和多志(わたし)の大神」(海神)としています。 |
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相生市の伝説(12)「神功皇后と三島大神」でも、三島社を取り上げています。
那波(なば)の浦(港)には、神功(じんぐう)皇后(こうごう)の祈願(きがん)により、三島大神(みしまのおおかみ)が鎮座(ちんざ)している三島神社があります。
神功皇后が新羅(しらぎ)国を攻撃する時、那波の入江の那波浦は、中国鎮護(ちんご)の水軍の要港でした。神功皇后の第三陣先鋒(せんぽう)の小千(おち)宿禰(すくね)三並の兵団がこの那波浦に停泊(ていはく)しました。
神功皇后は、小千宿禰三並に命じて、箆島(のしま)にある箭竹(やだけ)を採(と)らせました。また、神功皇后は、神托(しんたく)と勅命(ちょくめい)により、赤地向鼻(字甲崎)に大三島大神の本社(愛媛県)から三島大神を分霊(ぶんれい)しました。
瀬戸内海の海人集団を率いたのが、伊予国(愛媛県)の越智(小千)族の三並です。また、モンゴルの来襲(1281年)の時に活躍した河野通有は、三並の子孫になります。 |
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参考資料1:三島社(三島神社)については、記録を年代順に並べて、検討しました。
(1)神功皇后の時代、姫路から相生の赤地向鼻(相生字甲崎)に勧請されたとあります。
(2)神功皇后の時代、伊予国の大三島大神を相生の赤地向鼻(字甲崎)に分霊したとあります。
ここでは、姫路から勧請したという説と、伊予から分霊したという説があります。
(3)仁徳天皇の時代、大山積皇大神は、安芸国霧島より、伊予国にお帰りになったとあります。
(4)応神天皇の時代、大山積命を祖とする小千氏(越智氏)は、伊予国で勢力を伸ばしたとあります。
(5)崇峻天皇の時代、大山積皇大神は、播磨国那波浦三島社より伊予国小千郡(越智郡)の三島社にお移りになったとあります。
ここでは、大山積の神は、安芸国から伊予の国に還幸したという説と播磨國那波浦(相生)三島社から伊予国小千郡(越智郡)の三島社に遷幸したという説があります。
(6)伊予水軍の分師を播磨国那波郷の丘ノ台より大島にかけて築城しようとした時、神のお告げがあり、三島社を那波荒神山へお移したとあります。
(7)相生市那波には、荒神サン又は豆煎荒神サンという社があり、そこに、三島杜があります。荒神社は住宅地図にありますが、三島社はどの地図にも描かれていません。
史料にある那波荒神山の裏山を地元に人は「コウジンサン」と呼んでいます。三島社の裏山と同じ山です。地元に人に確認すると、この裏山も「コウジンサン」と読んでいました。
別な地元の人は、この三島社のある裏山を「コウジンサン」といわず、それより北の山を「コウジンサン」と呼んでいました。
ここでは、史料と地元の人の呼称が一致している三島社の裏山を荒神山という説を採用しました。
歴史や伝承などで解明できていない部分をミッシングリンク(失われた輪)といいます。今後は、この輪をつなぐためにデスクワークやフィールドワークでの発見・解明に期待いたします。 |
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参考資料2:人皇十七代大雀(おおさぎきの)天皇(仁徳天皇御事)御字、詔に依り、大山積皇(おおやまずみすめらの)大神、安芸国霧島より、伊予国鼻繰迫戸に還り奉る
人皇三十二代泊瀬部若雀(はつせべのわかさぎの)天皇(崇峻御事)御字己酉二年、神託に依り、大山積皇大神、播磨国より伊予国小千郡(越智郡)鼻繰迫戸島に遷りぬ、小千益窮之を祭り、但木枝に鏡を掛け、之を祭らしむ(『三島宮御鎮座本録』)。 |
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参考資料3:大山祇神社は、愛媛県今治市大三島町にあり、全国に分布(1万余社)する三島神社の総本社です。
大三島の地名は、芸予(広島件と愛媛県に挟まれた)諸島の中ので愛媛県最大の島です。神武天皇の頃、東征にさきがけとして、この地を御島と定めたことに始まるとされています。
仁徳天皇の時代、乎知命(小千氏の祖)が大山祇神を祀ったとあります(『大三島記文』)。
祭神は、大山積命です。父が伊弉諾尊(イザナギ)、母が伊弉冉尊(イザナミ)です。
大山積命の妹が天照大神、娘が木花之佐久夜毘売(瓊瓊杵尊の后)です。瓊瓊杵尊と木花之佐久夜毘売との間に生まれた子が海幸彦、山幸彦です。
推古天皇2(594)年、 摂津国三島江から分霊を勧請したとあります(『三島宮社記』)。 |
伊弉諾尊 |
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天照
大神 |
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天忍穂
耳尊 |
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瓊瓊
杵尊 |
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┫ |
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海幸彦 |
(火照命) |
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伊弉冉尊 |
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大山津
見神 |
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━━━ |
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木花佐久
夜比売 |
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山幸彦 |
(火遠理命) |
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葺草萱不合命 |
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綿津見神 |
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豊玉姫命 |
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神武天皇 |
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━━━玉 依 比 売 |
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Q考資料4:大山積命とはどのような神でしょうか。
大山積命は、『古事記』では大山津見神(おおやまつみのかみ)、『日本書紀』では大山祗神(おおやまつみのかみ)と表記されています。
『古事記』には、次のように描かれています。
さて、ニニギノ命は、笠沙の前で麗しい美人お逢いになった。そこで「だれの娘か」と問うと、美人は「私はオホヤマツミノ神の娘で、名をコノハナノサクヤ姫といいます」と答えた。また「あなたには兄弟はいるか」と問うと、「私の姉にイハナガ姫がおります」と答えた。そこで、「わたしはあなたと結婚したいと思うが、どうか」と言われたので、「私は返事ができない。私の父のオホヤマツミノ神が返事をするでしょう」と答えた。
そこで、その父のオホヤマツミノ神のもとへ使いを送った。オホヤマツミノ神は非常に喜んで、姉のイハナガ姫と一緒に、たくさんの品物を持たせて、娘を差し出した。ところが、その姉は、非常に醜かったので、見ては恐れをなして、送り返し、ただ妹のコノハナノサクヤ姫だけを留めて、一夜の契りをした。
そこで、オホヤマツミノ神は、ニニギノ命がイハナガ姫を返したので、非常に恥じて、「私の娘を二人並べて差し出した理由は、イハナガ姫を気に入れば、天つ神の御子の命は、雪が降り風が吹いても、つねに岩のように何事にも動じなくなるであろう。またコノハナノサクヤ姫を気に入れば、木の花が咲き栄えるように、益々、栄えるであろうと思って、差し出したのです」と手紙を出しました。このように、イハナガ姫を返して、コノハナノサクヤ姫を留めたので、天つ神の御子の寿命は、木の花のようにはかなくなるでしょう」と言った。そこで、以上の理由から、今に至るまで、天皇のお命は長くはならなかったのである。 |
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『古事記』(原文) |
ここに天津日高日番能二迩迩芸能命、笠沙の御前に麗しき美人に遇いひたまひき。ここに「誰が女ぞ」と問ひたまへば、答へて白さく、「大山津見神の女、名は神阿多都比売、亦の名は木花之佐久夜毘売と謂ふ」とまをしき。また、「汝の兄弟ありや」と問ひたまへば、「我が姉、石長比売あり」と答へ白しき。ここに、「吾汝に目合せむと欲ふは奈何に」と詔りたまへば、「僕はえ白さじ。僕が父大山津見神ぞ白さむ」と答え白しき。
かれ、その父大山津見神に乞ひに遣はしたまひし時、いたく歓喜びて、その姉石長比売を副へ、百取の机代の物を持たしめて、奉り出しき。かれここに、その姉はいと凶醜きによりて、見畏みて返し送り、ただその弟木花之佐久夜毘売を留めて、一宿婚したまひき。
ここに大山津見神、石長比売を返したまひしによりていたく恥ぢ、白し送りて言はく、「我が女二並べて立奉りし由は、石長比売を使はさば、天つ神の御子の命は、雪零風吹くとも、恒に石の如く常は堅はに動かず坐さむ。また木花之佐久夜毘売を使はさば、木の花の栄ゆるが如栄えまさむと、うけひて貢進りき。かく石長比売を返さしめて、独り木花之佐久夜毘売を留めたまひし故に、天つ神の御子の御寿は、木の花のあまひのみ坐さむ」といひき。かれここをもちて、今に至るまで天皇命等の御命長からざるなり。 |
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参考資料5:山幸彦(やまさちひこ)と海幸彦(うみさちひこ)
ある時、弟・山幸彦は、兄・海幸彦の猟具で魚釣りに出ましたが、釣針を失い、探し求めて海宮(龍宮)に赴き、海神の娘・豊玉姫と出会い結婚しました。 |
挿絵:丸山末美 |
出展:『相生市史』第四巻・『歴史講座━街道をあるく━』 |