(18)大避(おおさけ)神社と秦河勝(はたのかわかつ)と養蚕
 若狭野町下土井に大避神社があります。
 祭神は大避大神(おおさけのおおかみ)で秦河勝公(はたのかわかつこう)、稲倉魂命(いなくらたまのみこと)、素蓋鳴命(すさのおのみこと)の三神を祀っています。
 地元の人は、「つったのみや」とよんでいます。
 秦河勝公は、たびたび、矢野の三濃山(みのうさん)に狩に来ていました。その途中、休憩した先で、村人に養蚕の仕方を教えました。
 そこで、村人は、これを喜び、その恩に報いるために、土の壇を設けて、酒や食事などをふるまってもてなしたといいます。
 その後、ここに土の壇を設けてお宮としたことから、土壇の宮と名付けられました。
 さらに、その後、この地を土田村と言っていたので、土田の宮とよぶようになりました。
 『相生の伝説と昔話』では、すでに、三本卒塔婆(忠犬伝説)」と「蘇我馬子と入鹿淵の伝説」で秦河勝と大避神社を簡単に紹介しています。
 今回は、『相生市史』第一巻の第二章「古代の相生」(担当:井上満郎氏)で詳しく取り上げられている秦河勝と大避神社の要約を紹介します。

 『新撰姓氏録』(815年)には、合計1182の氏族名があり、その構成は皇別335氏・神別404氏・諸蕃326氏になっています。天皇・皇族を始祖とするのが皇別、神々を始祖とするのが神別、中国人・朝鮮人ら渡来系氏族を始祖とするのが諸蕃です。京畿在住氏族の3分の1が渡来系氏族です。
 さらに、諸蕃を「漢」「百済」「高麗」「新羅」「任那」に区分しています。「漢」とは、中国大陸の王朝の皇帝たちを始祖と主張する氏族です。「百済」「高麗」「新羅」とは、朝鮮半島諸国の王族を始祖と主張する氏族です。
 秦河勝の属した秦氏は、「漢」族であり、中国皇帝の子孫ということになります。朝鮮半島からの渡来人が中国皇帝の子孫を主張した理由はどこにあるのでしょうか。当時は、中国を尊貴視する社会的風潮があり、そう主張した方が日本における政治的地位を求める場合、有利になると判断したと思われます。

 『日本書紀』(応神天皇14年2月条)に、
 「弓月君、百済より来帰り。因りて奏して曰さく、臣 己が国の人夫百二十県を領いて帰化く」(弓月君は百済より日本に来た。弓月君が言うには、自分の国の120か村の人民を率いて、日本に帰化した)。ここでは、百済から来たとあります。
 『新撰姓氏録』(左京諸蕃の条)には、
 「秦始皇帝の三世孫孝武王より出ずるなり。男功満王、帯仲彦天皇 謚仲哀 八年に来朝す。 男融通王 一に云く、弓月君 誉田天皇 謚応神 十四年、廿七県の百姓来り率て帰化し、金 ・銀・玉・畠等の物を献ず」(功満王は、秦始皇帝の孫・孝武王の子であり、仲哀天皇の8年に日本にやってきた。功満王の子・融通王、別名・弓月君は応神天皇の14年に27県の人民を率いて帰化し、金・銀・玉・畠等を献上した)。ここでは、秦氏の「秦」は、秦始皇帝の「秦」によるとしています。 
相生市若狭野町下土井
「YAHOO地図情報」をクリックすると、
現地の詳細地図が表示されます
大避神社(「郷土のあゆみ」より)

 つぎに、秦氏の日本の古代社会での役割を考えることにします。
 『古語拾遺』(807年)には、
 「秦氏、其の物を出納し、東西の文氏、其の簿を勘録」(秦氏は、大蔵の財物を出納し、東西の文氏は帳簿を調べ記録している)。 
 『新撰姓氏録』には、
 「秦公酒、大泊瀬幼武天皇 謚雄略の御世、絲・綿・絹・帛を委ね積むこと岳のごとし。天皇これを嘉し、号を賜って禹都万佐(うつまさ)と曰う」(秦公酒(はたのきみさけ)は、雄略天皇の時代に、絲・綿・絹・帛を献上したが、それを山のように積みあげた。天皇は喜んで、太秦(うずまさ)という名を与えた)
 『政事要略』(1002年頃)には、
 「葛野大堰を造ること、天下に誰か比検する有らんや。これ秦氏の種類を率い催して造り構うるところなり」(潅漑用水を確保するために、葛野川=桂川に大きな堰を造ることは秦氏以外誰が出来ようか。秦氏が一族郎党を率いて作ったものである)
 このことから、秦氏は「殖産的氏族」ともいわれる。
 相生では、秦氏一族の秦為辰が久富保の開発を行っています。秦氏らのもたらした先進的な文化と技術やそれにもとずく活躍と、それまでこの地域において生きてきた在来の相生人たちとが一体となって、相生市の古代は築かれてゆくのです。河勝の生涯は、こうした前提のもとで、はじめて理解することができます。

 次に、秦河勝の相生来着を考えることにします。
 世阿弥元清の『花伝書』(1400年頃)には、
 「摂津国難波の浦より、うつぼ舟にのりて、風にまかせて西海に出づ。播磨国坂越の浦に着く」(秦河勝は、欽明・敏達・用明・崇唆・推古朝に仕え、聖徳太子の時代には66番の猿楽を創始した。やがて、摂津の難波よりうつぼ舟に乗って、風にまかせて西の海へ出発した。坂越浦に着いた)。世阿弥元清の『花伝書』では坂越の港に着いたとなっています。
 世阿弥の女婿・金春禅竹の『明宿集』(1465年頃)には、
 「世ヲ背キ、空舟ニ乗り、西海ニ浮カビ給イシガ、播磨ノ国南波尺師ノ浦ニ寄ル。蜑人舟ヲ上ゲテ見ルニ、化シテ神トナリ給フ。当所近離ニ憑キ崇リ給シカバ、大キニ荒ルル神ト申ス。スナワチ大荒神ニテマシマス也。(中略)ソノ後、坂越ノ浦ニ崇メ、宮造リス。次ニ、同国山ノ里ニ移シタテマツテ、宮造リ ヲビタヾシクシテ、西海道ヲ守リ給フ。所ノ人、猿楽ノ宮トモ、宿神トモ、コレヲ申タテマツルナリ」(世を背き、うつぼ舟にのりて、西海に浮かんでいたが、播磨の国南波(相生市那波)尺師(?)の浦に寄る。蜑人(猟師)が舟を上げて見ると、神になっていた。当所近離に憑き崇ったので、大荒神と言うようになった。つまり大荒神である。(中略)その後、坂越の浦に崇め、宮を造った。次に、播磨の山の里にお移しして、宮造りを度々して、西海道を守る神となった。地元の人は、猿楽の宮とも、宿神ともいって崇拝している)
 秦河勝を祭神とする神社があったため、その神社と能楽が結びつき、能楽の始祖である河勝は播磨にいた、ということになりました。
 那波や赤穂市坂越の大避神社がもっと古くから存在していたことは疑いないから、可能性としては、神社が創建されてそう遠くない時期に河勝伝承が発生したといえよう。

 『本朝皇胤紹運録』(1426年)には安閑天皇の皇子の豊彦王に注して、
 「現神。播磨国大僻大明神是也。秦氏の祖」(今の神、播磨国の大僻大明神である。秦氏の祖である)
 秦氏は、山背国葛野郡の太秦に神社を建立しています。その名前が「大酒神社」です。祭神は始皇・弓月君・秦酒公です。つまり、大避神社は、秦氏の氏神です。
 603年に秦氏の氏寺として建立された広隆寺の「来由記」(1499年)によれば、大酒は大避であり、秦の始皇帝の祖先神とされています。
 『播州名所巡覧図会』(1804年)には、
 「大避は、入鹿の難を御避の義なるか。坂越(さこし)も避来(さけこし)の義なるか」(大避の意味は、入鹿の難をお避けになるという意味か。坂越(さこし)も避来(さけこし)の意味か)
 サイノ神が避けの神″のなまった道の神であり、「大サケノ神」も道の神=道祖神と考えるほうが妥当です。行旅の安全、疫病などの災厄の侵入防止などが大避神の役目でした。
 大避神の避は「裂」(さけ)、つまり、土地をひらくという意味をもっています。秦氏が先進的な開発技術を駆使して開拓にあたったことを示すものだという説もあります。
 秦氏の一族が相生市域に住みついて以降、大避神への信仰はいつも私たちの祖先とともにあったのです。

 『赤穂郡神社明細帳』(1879年)によれば、全体の神社数は231社で、その内大避神社は21社なので約1割に達します。赤穂郡内での大避神社の信仰の影響が、他にくらべて圧倒的に強いといえます。
 相生では、大避神社は、佐方・那波・下土井・三濃山・下田・森の6か所で確認できます。
 大避神社の分布は、秦氏一族の影響の大きさと一体となっているといます。 

参考資料1:『相生市史』第四巻で、佐々木泰彦氏は「第一次世界大戦(1914〜1918年)後に、若狭野・矢野地区で養蚕が奨励され、副業としてはじめた農家は次第にふえて、特に若狭野町出地区では全戸が養蚕を手がけた」と指摘しています。
 同じく第四巻で、多淵敏樹氏は「神社の創建についてはよくわからないが、・・いずれにしろ秦河勝にまつわる神社として、中世以降この地方の鎮守として、若狭野の歴史に常にかかわってきた重要な神社であったことは確かである」と記述しています。
 歴史的な史料からすると、第一次世界大戦後に養蚕が確認されたということですが、神社の創建は中世頃となります。
 民俗学的な立場からすると、神社の創建にまつわる伝説として、秦河勝が指導して、養蚕が普及したということは、第一次世界大戦以前から、この地区では養蚕の知識と技術が継承されていたと考えられます。
 つまり、養蚕の知識や体験がない人が養蚕にまつわる伝説を語ることができないからです。
 矢野の方(1926=大正15年生まれ)に話を聞くと、「第一次世界大戦以前から、近所では蚕を飼っている家があり、要らなくなった蚕さんでよく遊んだものだ」と教えられました。

参考資料2:秦河勝と大避神社の関係は、次のようになります。
 高度な知識(文字・仏教など)や技術(開墾・養蚕など)を身につけた人々が朝鮮半島から日本にやって来ました。
 九州から瀬戸内海を東へ東へと進むうちに、千種川に沿って定住する者もいました。ここに定住した理由は、自分たちの故郷に環境が似ていたのか、暮らしやすそうだったかはわかりませんが、ともかく、秦始皇帝を祖と自称する秦氏の一族が多数定住しました。
 弓月君(融通王)の孫で普洞王の子・秦公酒は、雄略天皇の時代に、絲(よりいと)・綿・絹・帛(絹織物)を山のように献上して太秦という号を与えられました。つまり、秦公酒は、秦氏の族長であり、この山のような献上品は、播磨などの各地の秦氏から上納されたものということになります。
 秦公酒の子孫が秦河勝で、秦氏の族長です。
 千種川沿岸の秦氏の活躍は顕著です。矢野荘(久富保)を開発したのは秦氏一族の秦為辰です。しかし、こうした地方の秦氏を日本史上のスーパースターである秦河勝と結び付ける庶民感情が貴人伝説を誕生させたと言えます。






























伏見
稲荷
社家

参考資料3:秦河勝と蘇我氏と聖徳太子の関係を検証します。
 『古語拾遺』には、秦氏の族長・秦酒公が一族をを率いて貢物を庭中に積み、この後、諸国の貢調、年々に満ち溢れた。そこで、大蔵を新設し、管理を秦氏に任せたとあります。
 斎蔵・内蔵・大蔵の三蔵は、大和政権の財庫です。神宝を蔵するのが斎蔵,皇室の財物を蔵するのが内蔵,政府の財物を蔵するのが大蔵です。この三蔵を総括的に管掌したのが蘇我満智とされています。蘇我満智は蘇我稲目の曾祖父です。
 蘇我氏は、渡来系の秦氏らの知識・技術を得て、権力を蓄えていったことが分かります。
 聖徳太子の父・用明天皇は、母が蘇我稲目の娘・堅塩姫です。聖徳太子の父方の祖母と母方の祖母が姉妹という関係です。さらに聖徳太子の妻が蘇我稲目の孫・刀自古郎女です。
 蘇我氏は、閨閥関係で、聖徳太子と密接な関係にあることが分かります。
欽 明 天 皇 推 古 天 皇






|| || 用 明 天 皇
━||━ 堅塩姫 ||━━━ 聖徳太子
||━ ━━━ 穴穂部間人皇女 ||
小姉君 穴穂部皇子 ||
崇 峻 天 皇 ||
|| ||
馬 子 ━━━ ━━河 上 娘 ||
蝦夷 ||
━━━━━━ 刀自古郎女

 『日本書紀』推古天皇11(603)年11月の条には、皇太子であった聖徳太子は諸臣にむかって、「我、尊き仏像有てり。誰か是の像を得て恭拝らむ」(ここに尊い仏像がある。誰かこの仏像を拝むものはいないか)と問いました。そこで秦河勝が名乗りを上げ、実家に「峰岡寺」を建立ししました。これが後の広隆寺で、秦氏一族の氏寺となりました。広隆寺には、国宝第1号の弥勒菩薩半伽思惟像が安置されています。仏像は日本には作例のないアカマツ材を使っており、朝鮮から搬入された仏像ではないかと言われています。
 『日本書紀』欽明天皇13(552)年冬10月の条には、「百済の聖明王、・・釈迦仏に金銅像一躯・・を献る。…群臣に歴問ひて日く、『礼ふべきや不や』と。蘇我大臣稲目宿禰奏して日さく、『西蕃の諸国、一に皆礼ふ…』と。物部大連尾輿・中臣連鎌子、同じく奏して日さく、『今改めて蕃神を拝みたまはば、恐らくは国神の怒りを致したまはむ』と。天皇日く、『宜しく情願ふ人,稲目宿禰に付けて、誠に礼ひ拝ましむべし』と」(百済の聖明王が金銅像を贈ってきた。欽明天皇は、諸大臣に「崇拝するかどうか」と問うと、蘇我稲目は「朝鮮や中国では皆が崇拝している」と答えた。物部尾輿と中臣鎌子は「他国の神を拝んだならば、日本の神は怒るだろう」と答えた。そこで天皇は「希望する稲目に与えて、崇拝させてみよう」と言われた)
 渡来系の秦氏などは既に仏教を信仰していました。蘇我氏は、秦氏などの協力で権力を握っていました。彼らの支持を得るために、彼らの信仰を支持したのです。

 587年、皇位継承について大臣の蘇我馬子と大連の物部守屋が対立しました。
 『日本書紀』用明天皇2(587)年七月の条によると、蘇我馬子は諸皇子・群臣に勧めて、物部守屋を滅ぼすことを謀りました。崇仏派・蘇我氏側の聖徳太子が難局を打開するために「白膠木を取り、疾く四天皇像を作り、発誓言を発す。”今若し我に使し敵に勝たしめたまうならば、必ず当に四王を護り奉り、寺塔を起立せん”」(太子自ら白膠木(ぬるで)をとり、さっと四天王像を彫り、”敵に勝ったならば、必ず四王天=持国天(東方)・増長天(南方)・広目天(西方)・多聞天(北方)を護り、お寺と仏舎利塔を建てます”と誓願した)。
 『上官聖徳太子伝補閑記』には、秦河勝は「軍政人」として聖徳太子に従ったとあります。
  593年、聖徳太子は、戦勝祈願の約束通り、四天王寺を建立しました。
 渡来人・秦氏の知識(仏教)と技術(開墾・養蚕など)と財力などを背景に、蘇我氏や聖徳太子と密接に連携し合っていたことが証明できました。

参考資料4:大避神社に関して地元の人に話を聞きました。
 『矢野庄例名実検読合帳』(1297年)には、「大避宮前」という田が17条にあります。
 貞和(1345年)の記録には、「大避宮神田として二町三反三十代」とあります。
 大避神社は、先述したように「つったのみや」(土壇の宮・土田の宮)と呼ばれていました。
 あるいは、「おーざけ(おざけ)」とか「おーだけ(おだけ)」とか「おーさけ」という呼称もあります。
 以上の事から、13世紀末〜14世紀中ごろには、大避神社は創建されていたことがわかります。
 伝説では、つったの宮が最初の命名で、後に大避神社に変更したことになります。地名の変遷から大避神社の創建を検証することが、次の課題となります。
挿絵:丸山末美
出展:『相生市史』第一巻・第四巻・『郷土のあゆみ』