(10)地名伝説━那波(なば)
 那波については、昔、港に漁族が多く住み、常に波の花がいっぱい咲いていたから付けられたとも言われています。
 波の花とは、魚群が水面にまで浮かび上がってきて、泡を吹く様が花に見えたことをいいます。

 また、昔から、港内の波が穏やかであったとか、港が深く、広かったという説もあります。

 縄のようにくねくねと奥まった港という意味の縄から変化したという説もあります。

 759(天平宝字3)年頃に成立した『万葉集』には、相生を読んだ歌が3首あります。

(1)日置少老(へきのおおゆ)の歌です。
 縄乃浦爾 塩焼火気 夕去者 行過不得而 山爾棚引(巻3・354号歌)
 縄の浦に 塩焼くけぶり 夕されば 行き過ぎかねて 山にたなびく
 (縄の浦で、塩焼く煙は、夕なぎの頃になると、流れもあえず、山にまつわりついてたなびいている)

(2)山部赤人(やまべのあかひと)の歌です。
 縄浦従 背向爾所見 奥島 榜回舟者 釣為良下 (巻3・357号歌) 
 縄の浦ゆ 背向(そかい)に見ゆる 奥島(沖つ島) こぎ廻(み)る舟は 釣をすらしも
 (縄の浦にたどりついて、振り返るとはるか沖合に見える島、あの島のあたりを漕いでいる舟は、まだ釣りのまっ最中らしい)

相生市那波港
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宮山から見た那波港(左手前)と相生湾
(3)柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の歌です。
 妻隠 矢野神山 露霜尓 尓宝比始 散巻惜 (巻10・2178号歌)
 妻ごもる 矢野の神山 露霜に にはひそめたり 散らまく惜しも
 (矢野の神山が、霜や露で、色づき始めた。散ったら惜しいな)

 ここでは、日置少老と山部赤人の歌を検証します。
 日置少老は、経歴は、不明ですが、瀬戸内海航路を船で相生市沖を通りすぎるときに、湾内の那波の浦から立ちのぼりゆく煙に興をもよおして歌にしました。

 山部赤人は、柿本人麻呂と共に、「山柿の門」(大伴家持の書簡)・歌仙(古今集序)と評される歌人です。赤人が伊予(愛媛県)の道後温泉などに旅した時、縄の浦(那波の浦)から後のほうに見えている奥島(沖つ島)の周辺をこぎ廻っている船は、釣をしているらしいという情景を歌にしました。

 「縄の浦」は、那波の浦、または相生湾全体を指すとされています。
 奥島(沖つ島)は、蔓(かつら)島を指すとされています。

 参考資料1:「縄の浦」には、どのような意味があるのでしょうか。
 まず、縄の語源は、「糸+黽(とかげ)」で形成されており、意味はトカゲのように長い状態をいいます。
 そして「縄縄(じょうじょう)」という意味は、物事が絶えずに長く続くさまをいいます。
 次に浦の語源は、「水+音符の甫」で形成されており、水がひたひたと岸にせまる状態をいいます。
 そのことから、海・川・湖などの水のほとりを総称して浦といいます。
 日本語での特別な意味として、海や湖などの、陸地にはいりこんだ所をさします。
 瀬戸内海を通行する人々にとって、入り江を想像しても、トカゲのように長くはいり込んだ所とは想像できません。日本人の語源的としては、縄の浦は那波の浦、つまり那波の港と解釈する方が自然ではないでしょうか。
 参考資料2:大伴家持の書簡では、「山柿の門」の「山」は山部赤人、「柿」は柿本人麻呂を指すと見る説が有力です(「山」を山上憶良とする説もあります)。古今集序では、山部赤人は、柿本人麻呂と共に歌仙として仰がれています。
 参考資料3:山部赤人の「田子の浦にうち出でてみれば白妙のふじのたかねに雪はふりつつ」(田子の浦の浜に出て、遠方を見上げると、真っ白い富士の高嶺に、今も雪は降り続いていることだ)が百人一首の第四番に選ばれています。
 参考資料4:柿本人麻呂は、660年頃〜720年頃の人で、歌聖と称されます。
 参考資料5:柿本人麻呂の「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」(山鳥の長く垂れ下がった尾ように、長い長いこの秋の夜を、私はひとり寂しく寝るのかなあ)が百人一首の第三番に選ばれています。
挿絵:丸山末美
出展:『相生市史』第四巻・『郷土のあゆみ』