(09)大島城の狐伝説

 相生市那波にある大島城址には、次のような言い伝えが残っています。

 ある娘さんが、祭りやめでたい日に、巻ずしや稲荷ずしなどを重箱に入れて、運んでいました。

 大島城址に近づくと、急に重箱が重くなったそうです。

 その後、重箱を開けてみると、巻ずしなどには手をつけず、稲荷ずしだけがなくなっていたという話です。

 ずっと後になっても、「夜遅くなると、狐が出て、悪さをするので、早く家に帰ってくるように」と、親から言われたといいます。

相生市那波大浜町
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大島古城
 大島城址にどうしてこのような言い伝えが残っているのでしょうか。
 長治元(1104)年、海老名家李が那波の大島に城郭を築きました。
 それより以前の話です。むかし源頼朝の家来に海老名盛重という弓の名人がいました。源頼朝が富士野で巻狩をした時、狐が海老名盛重の前にやって来て、「あす勢子(せこ)に追われて狩場に姿をみせますが、私は子どもを身ごもっています。どうか見逃して下さい」と何度も何度も懇願しました。
 しかし、狐の懇願にもかかわらず、海老名盛重は源頼朝に命じられて、母狐を射殺してしまいました。
 頼朝は、狐を退治した祝いとして、播磨の大島を与えたといいます。

 もう1つ、大島と狐に関する言い伝えがあります。

 建武3(1336)年、播磨の守護の赤松則村円心は、佐方(さがた)の狩り座(かりざ)を行いました。海老名弾正景知は、この時、赤松円心に命じられて、狐を射殺してしまいました。円心は、狐を退治した祝いとして、播磨の大島を与えたといいます。

 2つの話は、232年も離れていますが、共通しているのは、狐を退治した祝いとして、播磨の大島を与えられていることです。
 退治された狐と、その後、稲荷ずしを盗む狐の関係を調べてみましたが、現在も不明です。

 参考資料1:今回は、『相生市史』第四巻・『郷土のあゆみ』などを参考にしました。いずれ、海老名氏と大島城との言い伝えを取り上げる予定です。
 参考資料2:稲荷ずしは、甘く煮た油揚(あぶら)げの中に、すし飯をつめた食べ物で、祭りやお祝いのときに作られました。狐の好物が油揚げという言い伝えから、狐ずしとも言われます。
 参考資料3:稲荷神社の総本社の伏見稲荷には、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が祀られています。宇迦(うか)というの食(うけ)と同じ意味で食物のことです。稲荷は「稲に」宿るという意味です。
 宇迦之御魂神は、別名を御饌津神(みけつのかみ)といい、「三狐神」と理解されてきました。そのことから、狐が稲荷神の使いとされました。
 現在も、稲荷神社には狐の像が安置され、狐の好物の油揚げが供えられています。
 参考資料4:源頼朝(1147〜1199)は、文治元(1185)年に征夷大将軍になりました。伝説の海老名盛重と年代的には合いません。
 参考資料5:赤松則村(1277〜1350)は、建武3(1336)年に播磨の守護となりました。伝説の海老名景知とは年代は合います。
 参考資料6:狩り座は、狩猟の時、獲物を包囲する網のことです。マタギは、集団で獲物を一定の方向に誘導し、最後に狩り座に追い込んだといいます。
挿絵:丸山末美
出展:『相生市史』第四巻・『郷土のあゆみ』