(06)磐座(いわくら)神社の巨岩伝説
 矢野(やの)町森には、磐座(いわくら)神社があります。磐座の磐(いわ)は、大きな石という意味です。
 磐座の座は「います」と呼んで、「いる」の敬語です。
 磐座神社は、神が宿る大きな石がある神社ということになります。
 矢野庄(しょう)森村には、矢野神山(かみやま)という山がありました。今の磐座神社の裏山にあたります。神山の頂上には、大きな石がありました。その石の上に、天から神が降りてきました。その時、大きな石の一つが転がり落ちたといいます。この石が現在の磐座神社の座光石(ざこうせき)といわれています。
 その後、神山をめぐって、森村と能下(のうげ)村が争いを起こし、訴訟(そしょう)になりました。所有に決まった夜に、大きな岩が2つに裂けたといいます。
 現在、能下川を挟んで、西に感状(かんじょう)山、東に神田(かんだ)山・龍王山・権現(ごんげん)山がそびえています。神田山麓には円応寺跡があり、権現山の頂上付近に天狗岳(てんぐだけ)があります。
 権現山から少し降った所に竜王山があります。そこを奥の院といい、大岩窟(がんくつ)には阿弥陀仏(あみだぶつ)や龍王社(水の神)が安置されています。

 ここで、磐座神社の歴史をみてみましょう。
(1)『兵庫県神社誌』によると、「古書には”石蔵明神”、近世には”岩倉権現”といい、1000年以前に創立されました。社側に大岩があり、これを座光石または降座石といいます。はじめ、神はこの石の上に鎮座していましたが、後に現在地に遷座しました」とあります。
 神が天降った大きな石のある山を権現山といっています。権現とは、人々を救うために、阿弥陀・菩薩()が「」(仮)に日本のに姿をかえて「」れるという考えです。
(2)天和2(1682)年、神社の棟札には、「岩蔵地蔵権現造立 敬百謹呈」とあります。これも権現の考えで、こうした形態を神仏習合といいます。

(3)「磐座神社奥ノ院由来」には、次の様に書かれています。
 「龍王山南麓に禅宗の龍王山円応寺というお寺がありました。阿弥陀如来や普賢と文殊の両菩薩、別の厨子には石仏を安置していました。
 建武年間(1334〜1336年)に、僧玄素が開基しました。
 後に享保年間(1716〜1736)に、衰微していたのを当時の大庄屋兼祠官である小林六郎左衛門藤原重呆がこれを嘆いて、磐座神社の境内(龍王山)に堂宇(建物)を新築して移転・安置し、奥の院としました。
 明治時代の神仏分離の命令により阿弥陀如来らの仏像を光専寺に預けました。磐座神社の奥の院(龍王山)の堂宇は破壊されました。
 明治42(1909)年、日露戦争後、政府は神社合祀を勧奨したので、龍王山にある大岩(神の降座石)の東側の岩陰に堂宇を新築して安置しました。
 大正7(1918)年春より、龍王社と共に開扉して法要を行っています」

(4)「龍王社伝」には、次の様に書かれています。
 「龍王社は、磐座神社の末社です。岩窟に鎮座しています。その創建についてはよく分りませんが、古い神社で、雨乞いの神として崇敬をあつめています。
 享保年間に、祠官である小林六郎左衛門藤原重呆が社殿を再建しました。社前の鳥居は、元文4(1739)年末、森村の氏子が奉納しました。
 享保年間に、山論が起こりました。大坂で決裁があった夜、この大岩は2つに裂けたと『播磨鑑』にあります。
 大正7年より、毎年、仏像を龍王山奥の院から、氏子が輪番で、仏像を持って下り、光専寺の僧侶が法要を、磐座神社の神官が御堂の管理をするようになりました」

(5)『播磨鑑』には、次の様に書かれています。
 「森の神社 矢野庄森村
 権現という山上には、龍王の社が大石の下に有ります。この社より奥の山は、もともと森村の所有でしたが、享保年中に争論がおこり、池(能下)村の地となりました。大坂で、その決定があった夜、龍王社の前の大石が裂けたと言われています」

(6)麓の磐座神社から登ると、急斜面ですが、約15分ほどで龍王山に着きました。見上げると、びっくりするような大岩です。大岩の東面に小さな厨子があり、その中に阿弥陀如来と両菩薩が安置されていました。ここを奥の院といいます。
 同じ大岩の南側に小さい社殿があり、その中に龍王神像が安置されています。これが龍王社です。
 方向は違っても、1つの大岩の下に、神仏が同居していました。まさに、神仏習合の姿でした。
 大岩を西の斜面から見ると、『播磨鑑』にあるように、2つに裂けて寄り添っていました。この大岩から真下に急勾配な坂道を転がり降りると、麓の磐座神社に辿り着きます。
相生市矢野町森
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磐座神社の坐光石
 参考資料1:日本人は、大きな石に対してどのような考えを持っていたでしょうか。
 『古事記』には、次の様に書かれています。
 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は、黄泉(よみ)の国(死の国)の住人となった妻の伊邪那美命(いざなみのみこと)を訪ねました。しかし、変わり果てた妻の姿を見た夫は、恐ろしくて逃げ帰ります。妻は、必死な形相で追いかけます。夫は、黄泉の国と現世の国の境にある黄泉比良坂(よもつひらさか)に大石を置きました。それ以降、黄泉の国と現世の国との往来が出来なくなりました。
 当時の人々は、大石に大きな、不思議な力、つまり霊力を感じていたことが分ります。
 参考資料2:自然界には、常識では判断が出来ないことがたくさんあります。兵庫県高砂市に「石の宝殿」と言われる巨岩があります。高さ約5.7メートル、幅約6.5メートル、 奥行き約7.2メートル、重さ推定約500トンもあり、日本三奇といわれる奇岩です。考古学者森浩一氏の「物部守屋の墓が未完成のまま放棄された」など諸説がありますが、目的や用途については、現代でも不明です。
 『生石神社略記』には、「神代の昔、二神は相談して、一夜のうち、国土を鎮めるために相応しい石の宮殿をに造ろうとしましたが、賊神反乱の鎮圧に時間をとられ、工事半ばで夜が明けてしまいました。そこで掘り出した宮殿を正面に起こすことが出来なかった」とあります。
 当時の人々は、理解できない自然現象を、神話を創造して解決していたことが分ります。
 参考資料3:すべての事物(石・樹や生物)に霊魂が存在すると信じることを精霊崇拝とかアニミズムといいます。
 海の正倉院といわれる沖ノ島には、精霊崇拝を考える資料が残っています。
(1)4世紀後半〜5世紀中頃、神々が降臨する巨岩(岩座)の上に、石で区画した祭壇を設け、鏡・勾玉・刀・剣などを奉献します。巨岩そのものが信仰の対象になっています。
(2)5世紀後半〜6世紀、巨岩の下の岩陰に、石で区画した祭壇を設け、奉献します。
(3)7〜8世紀、半岩陰・半露天に、石で区画した祭壇を設け、奉献品します。巨岩との関係は薄い。
(4)8〜9世紀、露天に、石で区画した祭壇を設け、奉献します。巨岩との関係は全く見られません。
 参考資料4:相生市にある磐座神社を考察してみましょう。
(1)おそらく、初期の信仰の対象は権現山の天狗岩だったと思われます。今も、天狗岩は、矢野のどの位置からも見渡せる象徴的な存在です。龍王山から権現山へは、時間は約5分ですが、急勾配だし、左右は断崖絶壁です。信仰心と苦行が一致していた時代には、多くの人が参拝したでしょう。
 古老の話では、「朝な夕なに、神が降りたという天狗岩を拝んでいた」ということです。
(2)その後、龍王山の大岩の下の岩陰に、祭壇を設け、多くの人が参拝するようになりました。
(3)沖ノ島で見るような、半岩陰・半露天に、石で区画した祭壇を設けた形跡は見当たりません。
(4)さらに、時代が下って、龍王山の麓の現在地に磐座神社を遷座しました。しかし、ここでは、巨岩との関係は残されています。沖ノ島の(3)と(4)の性格を合わせ持っています。
 このように見ると、相生の磐座神社は、権現山や龍王山を含め、民俗学的にも非常に貴重な存在だということが分ります。
 参考資料5:今回は、『相生市史』第四巻・『郷土のあゆみ』などを参考にしました。
 参考資料6:『播磨鑑』は、宝暦12(1762)年、平野庸脩が発行したものです。
 参考資料7:「磐座神社奥の院由来」は、昭和40(1965)年4月2日、古記録を元に小林楓村氏が書いたものです。
 参考資料8:「龍王社伝」は、昭和40年4月2日、古記録を元にして小林楓村氏が書いたものです。
 参考資料9:『兵庫県神社誌』は、昭和13(1938)年に、兵庫県神職会が編集・発行したものです。
 参考資料10:降座石は、神が天から降りて来た石です。座(坐)光石は、山上から神を迎えた石です。
 参考資料11:石蔵・岩倉・岩蔵は、いずれも、石がたくさんある状態を示しています。
挿絵:丸山末美
出展:『相生市史』第四巻・『郷土のあゆみ』