(05)文福茶釜(ぶんぷくちゃがま)
 文福茶釜の伝説の前に茶釜があった求福寺(ぐぶくじ)のお話をします。

 『播磨鑑(はりまかがみ)』によると、弘法大師(こうぼうだいし)が奥矢野村に来た時、三本卒塔婆の話を聞いて、大同の年(806〜810)に伽藍(がらん)を建立しました。これが三濃山(みのうさん)求福寺です。
 『三濃山求福教寺縁起(えんぎ)』には次のような記録があります。

 貞観6(864)年に秦造(はたのみやつこ)内麿(うちまろ)が建立したのが求福寺の始りです。本尊は千手(せんじゅ)観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)で、その両脇の尊像は聖徳太子(しょうとくたいし)と弘法太師です。
 源(みなもと)八幡(はちまん)太郎義家(よしいえ)の頃(1039〜1106年)は、とても繁昌しました。
 しかし、保元平治の代(1156〜1160年)には、平氏によってお寺の領地や庄郷は没収されました。

 本堂には、本尊の千手観音像と脇尊像が残っており、三濃山観音寺とも言われます。
 『相生史話』には、三濃山の盛時をしのぶ寺跡として「久保院、奥之坊、三条坊、宝持坊、赤井坊、裏門大門の跡があり、三重塔の礎石が残り、源義家の供養(くよう)の宝筐(ほうきょう)印塔(いんとう)、秦河勝(はたのかわかつ)の供養という五輪(ごりん)石塔(せきとう)が残る」とあります。
 求福寺の入り口に釣ってある鰐口(わにぐち)には、慶応4(1868)年の歌が刻まれていました。
(1)古寺の 釜の松風 今も世に たかねとおとは 尚(なお)響きけり
(2)松風の 音を千里に ひびかせて 名は流れけり 古寺の釜
(3)幾千代(いくちよ)も なりをとどむる 茶釜哉(かな)
 ここで歌われた釜とか茶釜は、秦河勝(はたのかわかつ)が愛し所持していたといふ茶釜のことです。沸騰すればチリンチカンという秘(ひそ)かな音がして、遠く離れていても、聞こえてきたといいます。
 昔は鳴り錐子(きりこ)といっていましたが、福田眉仙(びせん)という画家が文福茶釜と名を改めました。
 福田眉仙は、何を想像して、文福茶釜と改名したのでしょうか。文福茶釜を知るには、タヌキとは何かを知る必要があります。以下、それを探ってみました。
相生市矢野町三濃山
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文福茶釜
 参考資料1:日本には古来から、すべての事物に霊魂や精神が存在するというアニミズム(精霊信仰)の考えがありました。巨大であったり、奇妙な山や岩や樹木に対する信仰です。人間以外の動物、例えばヘビやキツネやカラスさえ信仰の対象にしています。アイヌには、人にはそれぞれ守護する動物がいるという「守護動物信仰」があり、ヒグマやタヌキなどをイヨマンテ(飼育した動物の霊を神の世界に送る儀式)の対象としています。
 また、アニミズムの一種に「つくもがみ」(付喪神)という信仰があります。これは、古いとか年取ったタヌキなどの動物に霊魂や精霊が宿って妖怪化したものをいいます。『御伽草子』には「器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑(たぶらか)す、これを付喪神と号す」とあります。
 室町時代から江戸時代に流行した『御伽草子』に見られるように、ムカデやタヌキなどの動物に名を借りた教訓的な伝説(動物譚)もあります。
 参考資料2:江戸時代の松浦静山の『甲子夜話』(巻35の30)に出てくる茂林寺のムジナの話です。
 「昔、茂林寺に守鶴という老僧がいました。応永年中(1394〜1427年)、開山禅師(大林正通)にしたがって館林に来て、茂林寺十世岑月(しんげつ)禅師までお仕えしました。
 茂林寺七世月舟禅師の時、説法を受ける民衆や僧侶は1000人を越えました。しかし、茶釜が小さいので、月舟禅師が「お茶も出せない」と嘆いたのを聞き、守鶴はどこからか一つの茶がまを持って来ました。そして、その茶釜でお茶をせんじると、昼・夜汲んでもお茶は尽きることがありませんでした。人々はふしぎに思ってその理由を聞くと、守鶴は、「これは分福茶釜といって何千人が飲んでも尽ることはありません」と答えました。
 それより年月を経て、十世岑月禅師の代になりました。ある時、「守鶴がちょっと眠っている間に手足に毛が生え、しっぽ(尻尾)が見えた」など、誰となく噂をするようになりました。
 そのことを知った守鶴は、岑月禅師に向つて「私は開山禅師にしたがってやって来て、茂林寺にあること120余年になります。しかし、今、その縁も尽きたので、ここを去ります。私は本当は数千年を数えるムジナ(狢)です。お釈迦様が説法をした時にも大衆の数に入っておりました。それより中国へわたり、日本へ来て住むこと800年です」と話し、最後に「守鶴今はこれまでなり」と言うと、正体を現してムジナとなって飛んで行きました。
 「むじな【狢・貉】@アナグマの異称A混同して、タヌキをムジナと呼ぶこともある」(広辞苑)。
 ムジナはアナグマのことですが、関東地方では、タヌキ(狸)をムジナ(狢)と呼ぶ地域が多いそうです。
 参考資料3:群馬県の茂林寺では、狸(タヌキ)について次の様に説明しています。
 「応永33(1426)年群馬県の伊香保から来て代々の住職に仕えた守鶴和尚は、元亀元(1570)年夏七世月舟和尚の代に先人法会があり、喫茶の用に供する湯釜がなくて寺で困っていた際、一夜の中に何処からか一つの茶釜を持ってきて、茶道に備えた所が不思議に常に汲んでも湯は尽きなかったので、衆人は其の無尽蔵の妙術に驚かないものはありませんでした。
 和尚は自らこの茶釜を紫金銅分福と称しました。その後十世天南和尚の代まで161年茂林寺におりましたが、天正15(1587)年2月28日漂然と寺を去って行方がわかりません。
 後生守鶴和尚は狸の化身だと伝えるものがあり、皆様ご存知のお伽話となったものでしょう」
 参考資料4:狸にまつわる伝説には、様々なものがあります。以下は狸の恩返しです。
 神奈川県の建長寺に伝わる伝説です。
 建長寺の山門を再興することになりました。どうしても30両ほどが足りません。そこで、お寺の残飯を与えられていた狸は、お坊さんの姿になって勧進の旅に出ました。ところが、青梅街道でふとしたことから狸であることが分って、殺されてしまいました。しかし、手元にあった30両は建長寺に届けられ、再興に役立ったということです。
 香川県の善通寺に伝わるお話です。
 善通寺で経理を担当していたお坊さんは、収支20両の不足金を出してしまいました。このお坊さんは真面目な人だったので、死んでお詫びするしかないと覚悟して、遺書を書き、坐禅を組んでいました。その時、日ごろ、お坊さんが残飯を与えていた狸が20両を持参してきました。その金の出所を探ると、長宗我部氏の埋蔵金でした。
 群馬県の茂林寺に伝わるお話です。
 ある寺の和尚さんは、色々と変わった「お茶道具」を集めて、楽しんでいました。
 或る日、和尚さんは、古道具屋で形の良い茶釜を買って帰りました。
 和尚さんは、先日買ったばかりの茶釜に水を入れて火にかけると 茶釜は「アチチ一」と言っては頭や手足を出しました。びっくりした和尚さんは、茶釜を古物屋に売ってしまいました。
 その夜、古物屋は、茶釜の声で、起こされました。茶釜が涙ながらに「私は山に住んでいたタヌキですが、人間に見つかったので茶釜に化けました。すると、古道具屋に拾われ、あちこち売られてきました。どうかここに置いて下さい。必ずご恩返しします」と頼みました。そこで、古物屋は、茶釜が言うとおり見世物小屋を建て、茶釜の綱渡りを見せて、大儲けしました。
 古物屋は、「これだけ儲ければ結構だ。お前は、お寺でゆっくりお休みしろ」と言って、茂林寺に茶釜を持って行きました。茂林寺では、茶釜は頭や手足を出す事も無く、大切ににされているということです。
 参考資料5:次は「かちかち山」のタヌキのお話です。
 これは現在、読まれている「かちかち山」のお話です。
 いたずらなタヌキを捕まえたおばあさんは、おじいさんが帰るまでタヌキ汁の用意をして待っていましたが、タヌキにだまされ、杵でなぐられて大怪我をします。
 帰ってきたおじいさんは、おばあさんの様子に怒り、悲しみます。
 おじいさんにタヌキの話を聞いたウサギは、タヌキと山に芝刈りに行き、芝をかついだタヌキの後ろから火をつけます。タヌキが「なんだか、かちかち音がする」というと、ウサギは「かちかち山のかちかち鳥が鳴いているんだよ」と答えます。やがて火が大きくなり、タヌキは背中を大やけどしました。
 ウサギはタヌキの好きな魚釣りに誘いました。ウサギは木の船に乗りましたが、泥の船に乗ったタヌキはおぼれようとします。必死で改心して謝るタヌキをウサギは助け、おじいさんやおばあさんとも仲よく暮らすようになりました。
 これは室町時代から伝わる「かちかち山」のタヌキのお話です。
 おじいさんが畑を耕していると、タヌキが種や芋を食べてしまうので、怒ったおじいさんは、タヌキを捕まえて、おばあさんに狸汁にするよう命じて、畑に戻りました。
 タヌキは、「私が代わってつきます」と言って、おばあさんに縄を解かせました。杵をとりあげがタヌキは、麦をつくふりをして、いきなりおばあさんの頭へ杵を打ち下ろし、殴り殺しました。そして、おばあさんに化けたタヌキは、タヌキ汁のかわりにばば汁をこしらえて、おじいさんを待ちます。
 おじいさんがタヌキ汁だと思って食べると、タヌキは、元の姿に戻って「ばば食ったじいやい」と言って、流し板の下の骨を見せます。
 この話を聞いたウサギがタヌキを懲らしめるのです。最後は、タヌキが乗った泥舟が沈みかけます。ウサギは、必死で浮かび上がろうとするタヌキを櫓で殴って、溺れ死にさせて、おじいさんやおばあさんの仇をとりました(古老から聞き取り)。
 タヌキやぶんぷく茶釜から私たちは何を学ぶべきなのでしょうか。
 『本当は怖いグリム童話』が話題になりました。今の大人から見て、原作の残酷な場面を子供向けに書き換えたということが暴露され、ベストセラーにもなりました。イソップ童話にも残虐な話がたくさんあります。
 「かちかち山」の話も、戦前までは、室町時代の表現が残されていました。戦後、同じ理由で残酷な場面が書き換えられました。その結果、子供たちの環境は変わったでしょうか。むしろ、残酷な内容に真正面から向き合う場を奪った結果、現実から逃避するようになり、子供を取り巻く環境は最悪となっているのではないでしょうか。
 文化庁長官だった河合隼雄氏は、「子どもの時に残虐な話を聞いておいた方がよい」と書いています。
 参考資料6:「福茶釜」の方が有名ですが、「福茶釜」という名もあります。
 「福を分ける茶釜」という意味だという説があります。この場合「分福茶釜」となります。
 水を入れると「ぶくぶく」と沸騰することから「ぶんぶく」となったという説があります。この場合「ぶんぶく茶釜」となります。
 茶道の用語で、強火を意味する「文火」(ぶんか)と弱火を意味する「武火」(ぶか)と言う語を合わせ「文武」(ぶんぶ)という説もあります。これは鳥山石燕の『画図百鬼夜行』の説です。この場合「文福茶釜」となります。
 相生の茶釜は、口元がとてもユニークで、今にも喋りだしそうに感じられます。福田眉仙は、その口元から推測して、この愉快なタヌキを想像したのではないでしょうか。
 参考資料7:今回は、『相生市史』第四巻・『郷土のあゆみ』・『相生史話』などを参考にしました。
 参考資料8:『播磨鑑』は、平野庸脩が宝暦12(1762)年に著しました。
 参考資料9:『三濃山求福教寺縁起』は、三濃山別当が文化5(1808)年に著しました。
 参考資料10:鰐口にある歌は、慶応4(1868)年に作られました。
 参考資料11:『相生史話』は、小林楓村が昭和38(1963)年に著しました。。
 参考資料12:『甲子夜話』は、平戸藩主の松浦静山が文政4(1821)年に著しました。
 参考資料13:福田眉仙は、明治8(1875)年に矢野町瓜生に生まれ、東京美術学校で橋本雅邦に師事し、校長岡倉天心には人格的に深い影響をうけました。「新南画風」という独自の画境を拓きました。昭和38(1963)年、89歳で亡くなりました。
 参考資料14:求福寺の文福茶釜は、現在、相生市立歴史民俗資料館(相生市那波南本町11番1号、電話:0791-23-2961)に所蔵されています。
挿絵:丸山末美
出展:『相生市史』第四巻・『郷土のあゆみ』