(02)三本卒塔婆(そとば)(忠犬伝説)
 時は、用明天皇(ようめいてんのう)の時代でした。用明天皇の皇子が聖徳太子(しょうとくたいし)です。その聖徳太子に重く用いられたのが、秦河勝(はたのかわかつ)です。
 そんな関係で、秦河勝は、時の権力者である蘇我入鹿(そがのいるか)に憎まれ、流人(るにん)となって赤穂の坂越に逃れて来ました。
 秦河勝は、赤穂郡内をあちこち行っては、時々狩をしていました。
 相生の奥矢野の三濃山は、きわだった深山なので、狩をするには絶好の場所になっていました。そこで、秦河勝は、せこ(勢子のことで、獲物を追い込む狩人)を山の頂上に配置し、秦河勝自身は、山の谷底で待っていました。
 秦河勝が連れていた三匹の名犬がいました。しきりに獲物を求めて、谷から谷へ走りまわっていました。しばらくすると、三匹そろって帰ってきて、秦河勝に何かを訴えるように、激しくほえ始めました。
 狩りに夢中になっていた秦河勝は、犬がほえると 「えもの」がにげると思い、静かにするように懸命に犬をなだめましたが、犬はますますほえて、とうとう秦河勝の両足にかみつきました。
 秦河勝は、何を思ったか、刀を抜いて、三匹の名犬を切り殺してしまいました。
 切られた犬の首は、向かいの山へ飛んで行きました。
 不思議に思った秦河勝は、首が飛んで行った方をよく見ると、一丈(約5メートル)以上もある大きな蛇がおり、その大蛇が、秦河勝をねらってカマ首をもちあげていたのでした。その大蛇の首に、切られた犬が喰いついていました。
 犬が激しくほえたわけを知った秦河勝は、涙を流しました。そして、大蛇を退治しました。
 秦河勝は、三匹の犬を土葬して、持っていた弓を三つに切って、卒塔姿をつくり、ねんごろに葬りました。そのことから、この地を字(あざ)三本卒塔姿(そとば)というようになりました。
相生市矢野町能下
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三本卒塔姿
 その後、弘法大師がここにやって来ました。三本卒塔婆の由来を聞いた弘法大師は、大同年中(806年〜809年)にお寺を建立しました。これが三濃山ということです。
 貞観6(864)年に、赤穂郡の大領になった秦造内麻呂は、秦河勝の遺跡をたずね、その菩提を弔うために、三濃山に観音寺を建てたということです。

 参考資料1:秦河勝(?〜?)。6世紀末〜7世紀半ばの人で、秦氏の族長的地位である太秦(うずまさ)の地位に就き、聖徳太子に重用されました。その秦氏は新羅・加耶方面からの渡来人集団で、特に養蚕・機織の技術で発展しました。日本の国宝第一号は、秦河勝が建立した広隆寺の弥勒菩hです。
 参考資料2:聖徳太子(574〜622)。蘇我氏と物部氏の争いでは、蘇我馬子の陣についています。推古天皇の時、摂政になり、蘇我馬子と共同執政にあたります。7人の訴えを同時に聞いて解決したという伝説があります。
 参考資料3:蘇我入鹿(?〜645)。蘇我馬子の孫。聖徳太子の皇子の山背大兄王を殺害し、権力を握りましたが、乙巳(いつし)の変により、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で殺害されました。
 参考資料4:空海(774〜835)。真言宗の高野山金剛峰寺を創建しました。延喜21(921)年に弘法大師のおくり名(諡号)が与えられました。全国を遊行したという弘法井戸伝説があります。
挿絵:丸山末美
出展:『相生市史』第四巻