(01)和泉式部と小式部
 和泉守の橘道貞(たちばなのみちさだ)の妻である和泉式部は、上東門院に仕えていました。小式部が生まれた時は、橘道貞はこの世にはいませんでした。 そこで和泉式部は小式部を捨て子にしました。後のことを考え、小式部に絹に包ん守本尊(まもりほんぞん)を持たせ、絹の半分は自分が持ちました。
 たまたま、京に上っていた播磨国若狭野村の長者五郎大夫は、捨て子を拾い上げました。
 やがて、和泉式部の名声が高くなり、心に余裕が出ると、思い出されるのが小式部のことでした。ある時、上東門院(じょうとうもんいん)が播磨書写山に参詣する機会がありました。
 参詣を終えた和泉式部は、小式部の行方をあちこち尋ねて、若狭野村の雨内にやってきました。その時、時雨にあったので、栗の木の下で、雨宿りをしている時に歌を詠みました。
 苔むしろ 敷島の道に 行きくれて 雨のうちにし 宿る木のかげ
 この歌を詠むと、たちまち栗の枝が傘の形に垂(た)れて、雨が体にかかるのを防いでくれました。そこで、人々はこの栗の木のことを「宿り木の栗」「雨宿りの栗」と言い伝えるようになりました。
 和泉式部は、若狭野村の長者五郎大夫に頼んで一夜の宿をとりました。その時、五郎大夫の娘が綿を摘(つ)み揃えているのを見て、自分の捨てた娘と同じ年頃の娘であることが、懐かしく思えて「その綿売るか」と尋ねると、五郎大夫の娘は
 秋川の 瀬にすむ鮎の 腹にこそ うるかといえる わたはありけれ
 と歌を詠んで答えを返しました。和泉式部は、「あな子女がよく詠みたり」と褒めると、五郎大夫の娘は
 秋鹿の 母その柴を 折り敷きて 生みたる子こそ こめか(子女鹿)とはいえ
 と歌を詠んで答えを返しました。
 この即妙の歌に感じ入った和泉式部は、五郎大夫の娘の身の上を尋ねてみると、自分の子の小式部らしい。そこで、五郎大夫が持っている半切れの絹と、和泉式部が持っている半切れの絹を継ぎ合わせると、地紋(じもん)もぴったりと合い、その上に、守本尊も所持していました。
相生市若狭野町雨内
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和泉式部石碑
 この娘こそ十三年前に捨てた我が子に間違いない。和泉式部は、非常に喜び、五郎大夫に小式部を返して欲しいと懇願(こんがん)しました。しかし、長者の夫婦も長い間、いつくしみ育てた可愛い娘であるから、なかなか承知しませんでした。
 しかし、和泉式部の必死の願いに心打たれて、長者夫婦は、娘を返すことを承知しました。そして、和泉式部と小式部は、めでたく親子の名乗りをあげ、京に帰ることになりました。
 その後、小式部も、上東門院に宮仕えしました。
 小式部が詠んだ有名な歌は
 大江山 生野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立
 です。百人一首に選ばれています。
 和泉式部が小式部に持たせた守本尊は、若狭野村の薬師堂の本尊といわれています。

 参考資料1:上東門院(988〜1074年) は藤原道長の長女の藤原彰子の院号です。藤原彰子は一条天皇の中宮・後一条天皇・後朱雀天皇の母親です。
 参考資料2:和泉式部(?〜?)。橘道貞との間に小式部をもうけました。為尊親王や敦道親王とも恋をしたことで有名です。また、中宮藤原彰子(上東門院)の女房となっています。
挿絵:丸山末美
出展:『相生市史』第四巻