(南曲輪群の石垣)

  感状山城は、相生市矢野町瓜生と森にまたがる標高301.05mの感状山の尾根上に築かれていました。規模が雄大で眺望がよく、人の手による破壊などもなく、石垣や建物跡・礎石、井戸跡などの遺構が比較的よく残されているといった点では、播磨地方の代表的な中世山城の遺構であります。
  発掘調査は昭和60年度から3ヵ年をかけて部分調査を含めて実施されました。その結果、多くの建物群が発見され、曲輪群の全貌が明らかにされています。

 I 曲輪


( I 曲輪礎石群 )
  I 曲輪(くるわ)は、標高301.05m、城の―番奥の北隅にあり、姫路城などでいう近世の本丸に相当し、城のなかでも最も重要な箇所にあたります。南側斜面は地山の岩盤に自然石を組みあわせた石垣により囲まれています。曲輪内には、建物跡の礎石 (基礎の石)や排水溝と思われる横一列に並んだ石組みが発掘調査により発見されています。この礎石の配列から敷地いっばいに本丸御殿が築造されていたと推定されています。
  また曲輪内の中央より建物の柱穴(ちゅうけつ)が発見され、この中の底部から稲籾と16枚の銅銭、小皿が出土しました。これは、建物を建てるときの宗教的な意味を持つ「地鎮」ではないかと考えられています。


 II 曲輪


(南II曲輪建物復元図)
  II 曲輪は、標高296m、北 II 曲輪と南 II 曲輪の二つの曲輪によって構成されています。全体は石垣により支えられ、やせ尾根上を最大限に利用し、また西側は犬走りと呼ばれる3〜4m幅の帯曲輪(帯状の曲輪)が配置され、敵が侵入しにくいような工夫がされています。 
  南 II 曲輪では、隅櫓(すみやぐら)と大規模な建築とみられる礎石群が発見されています。隅櫓は、見張りを目的とした建物であったと推定されています。また大型の建物は広間を中心に多くの小部屋をもっており、I 曲輪が本丸御殿に対して、II 曲輪は、常の御殿(日常生活をしている場所)の建物の可能性があり、建築の時期は柱の間隔から十六世紀末頃ではないかと推測されています。


 南曲輪群


(南曲輪群)
  南曲輪群は、自然の尾根を利用して、六つの削平地(山を人工的に削り平らにしたところ)を階段状に造っています。この曲輪群は、大手門から本城へ侵入する敵を防ぐための要所となつています。特に注目されるのが、二段目の腰曲輪の石垣で、感状山城跡の中でも最も大きな石垣であり、保存状態もよく全長21m、高さ4.5mの規模を持っています。
  感状山城跡の石垣の構築方法は、「野面積み(のづらづみ)」といわれ、自然石を30cm角のものから、大きいのは1mあまりのものを使い、―見粗雑に積み上げたような構造となっています。近世の城に見られるような隅(角)を直角にする技法ではなく、いずれも鈍角でゆるいカーブを描くことで処理しています。これらの石積みから石垣づくりの城郭としては初期のものであると推定されています。


 III 曲輪群


( III 曲輪群大甕出土状況)

( III 曲輪群倉庫跡)

  感状山の中腹に、近世の城の三の丸に相当する III 曲輪群があります。この曲輪群は約1mの石垣の断差をもち、七段で構成されており、周囲には犬走りが配置され、感状山城の特徴を形づくっています。
  この III 曲輪群には、南北約7m、東西約8mの正方形に近い建物遺構が発見されています。この建物の周囲には方塼(ほうせん)といわれる瓦が縦に埋められていて、その内側に礎石が配列されています。これは、防火と防湿とともにねずみなどの小動物が建物内に侵入するのを防ぐため設けられたものと考えられ、食糧などを保管する倉庫跡とみられています。
  またこの近くには、備前焼の六甕九個が発掘調査により検出されており、大甕の底部についていたものを鑑定した結果、イノシシの塩漬肉に近いものが貯蔵されていたことが確認されています。この附近は城の台所に相当する場所ではないかと考えられています。


大手門跡と井戸跡

  大手門は、総石垣造りで、登り口の石段を中心に鳥の翼を広げた様な形に石垣が配列され、念入りに造られています。石段は六段あり、登り口は広く上部へ上がるほど狭く造られていて、大人数で―斉には上がれないような工夫がされています。
  両翼に伸びた石垣は、半円形に張出した形になっていて、敵に横から矢が射かけられるような仕組みになっています。また、ここには握りこぶし大の石が多くみられ、これは、戦国時代の伝統的な戦法の「つぶて」として用いられたと考えられています。


(大手門跡)


  井戸は箱型の石組で、底には粘土をひいた跡があります。真夏でも水深30cm程度の水があり、涸れることはないといわれています。また地元ではこの井戸について、感状山城が落城したときにまつわる伝説なども残されています。
(井戸跡)


 出 土 品


(備前焼大甕)

(皿)

( 方塼)

  感状山城跡の発掘調査は本格的な調査ではなかったこともあり、出土品は、比較的少量でした。これは、この城跡に火災の跡がないこともあわせて、この場所で大きな戦闘が行われず、関係生活用具は、建物の材木等を含め、一括他の場所へ移したのではないかと推測する専門家もいます。

 【備前焼大甕】 この大甕はIII曲輪群で紹介いたしましたが,この内の一個は現在、部分的に復元して,相生市立歴史民俗資料館で展示しています。

 【銅銭】 開元通寶(唐の時代)や永楽通寶(明の時代)などの中国から輸入された古銭が、多数発見されています。これは築城年代を知るうえで貴重な手がかりになるものです。

 【石臼】 石臼は「粉ひき臼」と「茶をひく臼」の二種類あり、出土した臼は茶臼として利用されていたものといわれています。当時のお茶はぜいたく品であることから、この城の生活は上流階級の生活であったと想像されます。

 【青銅製品】 刀のつばにつかわれていた切羽(せっぱ)、脇差しのさやの小刀にあたる小柄、鎧の一部にあたる威毛などの武具の一部も発見されています。
その他。皿、茶わん、すりばちなどの日常雑器片が出土しています。


(銅銭)

 歴 史

  感状山城が築かれたれた時代は、『播磨古城記』『岡城記』などによると,鎌倉時代(1192年〜1333年)に瓜生左衛門尉が築いたとする説と、建武3年(1336年)赤松円心の三男赤松則祐(そくゆう)が築いたとする説があります。
  建武年間(1334年〜1336年)、足利尊氏の追討をしていた新田義貞の率いる軍勢を赤松円心の三男則祐が奮戦し50余日にわたり足止めをした結果、足利尊氏の反撃の機会を与えることとなったことは歴史上有名です。この功績により足利尊氏が,赤松則祐に感状を与えたことから感状山と呼ばれるようになったといわれています。
  感状山城は総石垣による曲輪の構えから考えると,当初からのものではなく、後世に手を加えたもので、戦国時代(1467年〜1568年)にこの周辺を支配した宇喜多(浮田)氏の手によって改修されたものではないかという説もあります。



 指 定

昭和60年3月30日 相生市指定文化財

平成8年3月28日 国指定史跡(上郡町白旗城と同時指定)




(感状山城跡遠景 南東方向より)






交通のご案内
 JR相生駅から神姫バス榊行き20分、
 瓜生下車徒歩20分、
 羅漢の里登山口より城跡まで40分




お問い合わせ
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