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□相生市の文化・歴史

縄の浦山部赤人万葉歌碑
金ヶ崎 あいおい荘前
現地案内板
 「縄浦従背向尓所見奥嶋榜過舟者釣鵠良下 久孝書」

 縄の浦山部赤人万葉歌碑
 縄の浦ゆ背向に見ゆる沖っ島漕ぎ廻る舟は釣しすらしも(巻三 三五七)
 歌意「縄の浦にたどりついて振り返るとはるか沖合に見える島、あの島のあたりを漕いでいる舟は、まだ釣りのまっ最中らしい」 
 作者山部赤人は聖武朝の宮廷歌人。伊予の温泉(道後温泉)などに旅した折の詠か。
 「縄の浦」は相生市那波の海、または相生湾全体の称。「沖っ島」は鬘島や君島(鳴島)、あるいは唐荷島などをさすものか。
 書は京都大学名誉教授澤潟久孝氏。(中央公論社『萬葉集注釈』の原稿から採字)
平成二年十月廿一日
                   市教委・文学碑設立協会

『相生と文学碑』
沖つ島
 この歌は、「山部宿祢赤人歌六首」の中の一首です。
 「あいおい荘」近くに、山部赤人の辛荷島の長歌碑があります。この歌は縄の浦を舟で過ぎる赤人が、舟の上から見る情景を見たままに詠んだものといわれています。
 万葉集中の「縄の浦」の歌は、この赤人と日置少老の二首があります。

 「縄の浦ゆ」の「ゆ」は「‥‥を通って」の意味、「背向」はうしろ、「奥つ島」は沖つ島、「つ」は「天つ乙女」のつと同じく「の」の意味、「漕ぎ廻る舟」はこぎめぐる舟、「釣しすらしも」は釣をしているらしいよという意味です。「釣鵠良下」は、ここでは「釣しすらしも」と訓んでいますが、「釣をすらしも」と訓む説もあります。

 相生湾には、古く最奥部の那波海岸に接近して数個の島嶼と、湾口部にも鬘島(蔓島とも)と君島(万葉の鳴島)がありました。この歌の「縄の浦」を在来の那波説のいう旧赤穂郡那波村域に限定して考えると、「沖つ島」に相当するのは鬘島しかありません。しかし、その鬘島は那波からは見えません。「縄の浦」を旧那波域に限定するのは実景的ではありません。
 『播磨鑑』・『正統那波史』によると、相生湾口を「那波の口」と表現しています。昔は、相生湾と称する深い湾入を那波湾(那波浦)と称していたのです。

 山部赤人の位置は、相生湾西側の釜ケ崎と東の金ヶ崎とが外界に向かって緩やかに開口する、かなり広い海面と推測されます。釜ケ崎の壷根には、古墳時代の海人族の遺蹟が発掘されています。「釣」を業とする人びとの姿を、赤人は見たかもしれません。
 湾口に近い壷根辺の海面から振り返って見える「沖つ島」とは鬘島か君島でしょうか。
 鬘島は「おわん島」・「ごはんさん」とも呼ばれています。半球状に近い優美な姿を湾口に浮かべています。
 君島は同じ万葉集に「室の浦の湍門(せと)の崎なる鳴島の磯越す波に濡れにけるかも」とある鳴島のことです。
 これらの島は、播磨灘に浮かぶ「沖つ島」なのです。

『万葉集』
 『万葉集』は、7世紀後半〜8世紀後半にかけて編集された日本に現存する最古の和歌集です。全20巻で、皇族・貴族・中下級官人・庶民・作者不明の歌など約4540首で構成されています。
 歌を作った時期により4期に分類されます。
 第1期は、舒明天皇の即位(629年)〜壬申の乱(672年)までの約43年間です。代表的な歌人としては、有間皇子・天智天皇・額田王が有名です。
 第2期は、壬申の乱(672年)〜平城京遷都(710年)までの約38年間です。代表的な歌人としては、大津皇子・大伯皇女・柿本人麻呂・持統天皇・高市黒人・天武天皇が有名です。
 第3期は、平城京遷都(710年)〜遣唐使の玄ム・吉備真備帰国(733年)までの約23年間です。代表的な歌人としては、大伴旅人・坂上郎女・山上憶良・山部赤人が有名です。
 第4期は、吉備真備帰国(733年)〜新羅征伐準備(759年)までの約26年間です。代表的な歌人としては、大伴家持が有名です。

澤潟久孝
 澤潟久孝は、明治23(1890)年7月、伊勢市で生まれました。京都大学名誉教授です。
 厳格な考証にもとづく研究と、言語や意識の面から万葉びとの生活を全人的に捉えようとするその学風は、「澤潟万葉学」として知られています。
 万葉集の研究、特に訓話、注釈的研究に大きな功績を残し、万葉学会会長として、雑誌『万葉』を主宰してきました。
 澤潟久孝(79歳)は、昭和43(1968)年10月、万葉学会の講演のため、静岡に行きましたが、その泊所で、亡くなりました。

碑文字
 澤潟未亡人の意向により、皇学館大学蔵『萬葉集注釈』原稿からの採字しました。

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出典:『相生と文学碑』

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