(21)『保元物語』と海老名(えびな)源八(げんぱち)
藤原忠実 藤原忠通 藤原聖子
藤原頼長 ||
━━藤原泰子 ||
藤原公実 藤原得子 || ||
藤原苡子 || || ||━━ 体仁親王(近衛天皇)
白河天皇 ||━ 鳥 羽 天 皇 || ||━ 重仁親王
  ||   ||   || || 法印信縁の娘
||━ 堀川天皇 ||━ ━┳ 顕 仁 親 王(崇 徳 天 皇)
藤原賢子 藤原璋子 ━━━━ 雅仁親王(後白河天皇)
系図の説明(天皇、藤原氏)

平 正盛 平 忠盛 平 清盛
平 忠正
源 頼信 源 為義 源 義朝
源 為朝
源 頼光 ………… 源 頼政
藤原忠実 藤原忠通
藤原頼長
鳥羽天皇 崇徳上皇
後白河天皇
紀伊の局
||
━━┛
(乳母)
||
藤原通憲(信西)
系図の説明(崇徳上皇側、後白河天皇側)

 「海老名系図」によると、長治元(1104)年に兄・海老名季兼(すえかね)と弟・海老名家李(いえすえ)との間で家督(かとく)を争ったとき、源義家(みなおとのよしいえ)の裁決(さいけつ)にしたがって、家李が相撲(さがみ、今の)国から矢野荘別名に移り、大嶋城をきずき水田を開発したとあります。

 保元元(1156)年、保元の乱が起こりました。
 原因は、皇位の継承をめぐって崇徳上皇と後白河天皇との兄弟の争いがありました。さらに、摂関家藤原氏も兄の関白忠通と弟の左大臣頼長が氏の長者をめぐって対立があり、それぞれが上皇方・天皇方に属しました。
 さらに、源氏や平家の武士たちも上皇方・天皇方に属し、また、それぞれ親子・兄弟が上皇方・天皇方に属して戦うという大変な事件でした。
 相生にゆかりのある海老名氏の先祖・海老名源八も、天皇方の源義朝に従って活躍しています。

 この戦の結果、後白河天皇方が勝ち、崇徳上皇は讃岐へ流されました。
 貴族では左大臣不藤原頼長が自害しました。
 武士の処分は、藤原通憲(信西)と清盛の主張によって、斬首と決まりました。長い間、斬首の刑は途絶えていたのを、清盛らの強い主張で復活したのです。藤原信西は、妻(紀伊の局)が後白河天皇の乳母だったことから、大きな発言権を持っていました。
 これにより、平氏では平忠正1人が処分されました。しかし、源氏では源為義やその他一族の多くが斬首されました。強弓で有名な源為朝は伊豆大島に流されました。

 後白河天皇方に属していた武士は戦功により、平清盛は播磨守に、源義朝は左馬頭に任ぜられました。

 保元2(1157)年、伊予の豪族である河野通清(みちきよ)は、相生の丘ノ台より大島にかけて城を造りました。

 平治元(1159)年、平治の乱に敗れた源氏は、尾張国で源義朝が殺され、嫡子の源頼朝は伊豆の蛭ケ小島に流罪となりました。
 治承4(1180)年、平氏打倒の挙兵をした源頼朝を攻めたのは、大庭景親に率いられた海老名源八季貞(季定)らでした。しかし、頼朝の弟・源範頼に属して戦った武将に海老名源八の嫡子・季久がいました。
 元暦元(1184)年、播磨の一の谷の平氏を攻撃したのは、頼朝の弟・源範頼に属した海老名源八の嫡子・季久らでした。
 文治2(1186)年、歓喜光院領の下司職・矢野馬次郎盛重は、「海老名能季が地頭と称して播磨国矢野荘に押妨を加えた」と源頼朝に訴えています。
 文治5(1189)年、は、平泉の奥州征伐をした源頼朝軍の御家人として、海老名源八の四男・海老名能季の名があります。

 相生の矢野荘に登場した海老名能季は、源頼朝の御家人(本補地頭)です。
 
 建武2(1335)年、地元の百姓が荘園領主の東寺側に協力したので、土着の寺田法然は相生の歴史から姿を消すことになりました。
矢野町寺田
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寺田付近(矢野川中学校屋上より)

 この戦記である『保元物語』には、相生に土着した海老名氏の先祖・海老名源八季定が登場しています。
 『保元物語』には諸本があります。金刀比羅宮所蔵の『保元物語』には、源義朝に相従う輩として海老名源八の名が記されています。
 宮内庁書陵部所蔵の『保元物語』には、源為朝を追い詰めたり、悪七別当に苦戦する。海老名源八の名が記されています。

 この海老名氏については『相生市史』第一巻四葦一節2項を参照されたい。この源八こと季貞の第四子季能(能李ともいう)が相生市とかかわりをもつことになる。

現代語訳
 後白河天皇が御所の高松殿南殿にお出でになり、公(摂政・関白・大臣)卿(大納言・中納言・参議・三位以上の貴族)と評定をされましたあり(中略)。
 源義朝は、赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、脇楯(胴の右脇にあててすきまを防ぐ鎧の一部)・小具足(小手・脛当)だけの出で立ちに、大刀をさしていました(中略)。
 義朝は「私はかりにも武士の家に生れて、この戦いに遭うは幸運である。日頃、朝廷を相手の戦いには、朝威を恐れて思うように戦うことが出来なかった。今度は、天皇も命令を受けているので、何ら憚ることはない。習い覚えた技をこの戦で思う存分発揮して、名を後世に伝えたい」と言って、白旄(白い旄牛の尾)を付けた旗をなびかせ、黄金つくりのナサカリを光らせ、星旄(白い旄牛の尾に星の飾り)を付けた旗と電戟(稲妻のように光るホコ)の威力を見せつけながら、勇んで進軍しました。立派な大将とその軍のように見えました。
 それに従う武士は誰々であろうか(中略)。相撲国では大庭平太(景義)・同三郎・山内刑部丞・子息滝口・海老名源八・波多野小二郎(中略)らがいました。これらを初として、兵400余騎、合計1000余騎が義朝に従って駆けて行きました。
原文
 『保元物語』(金刀比羅宮所蔵)━官軍勢汰へ弄びに主上三億殿に行幸の事
 内裡高松殿には、主上南殿に出御なりて、公卿倉議あり。
 義朝は、赤地の錦の直垂に、脇楯・小具足計にて、大刀はきたり。
 義朝申されけるは、「義朝いやしくも武備の家に生れて、此事にあふはみの幸也。日来私軍の合戦の時は、朝威に恐れて思様にふるまはず。今度におゐては宣旨を承る上は、憚所なし。藝を此時にほどこし、名を後代にあぐべし。」とて、白旄の旗をなびかし、黄えつの鉾をかゝやかし、星旄電戟の威をふるつていさみ進てうち出し、あッばれ大将軍也とぞみえし。
 相随ふ輩は誰々ぞ。(中略)相撲国には大庭平太・同三郎・山内刑部丞・子息滝口・海老名源八・波多野小二郎(中略)。これらを初として、兵四百余醇、都合一千余騎にて馳向う。

現代語訳
 (1156年7月)11日午前4時に、後白河天皇方の軍は、既に御所(崇徳上皇方の本拠)へ押し寄せていました。その時、東国より軍勢が上洛してきて、源義朝に従がう兵は多くなりました。
 まず、鎌田次郎正清をはじめとして・・相模には大庭平太景吉〔景義〕、同三郎景親、山内須藤〔首藤〕刑部丞俊通、その子滝口俊綱、海老名源八季定、秦野二郎延景、荻野四郎忠義、安房には・・。
原文
『保元物語』(上巻 第十三)━主上三条殿に行幸の事附たり官軍勢汰の事
 十一日の寅刻に、官軍既に御所へをしよす。折節東國より軍勢上り合て、義朝にあひしたがふ兵多かりけり。
 先鎌田の次郎正清をはじめとして・・相模には大庭平太景吉・同三郎景親・山内須藤刑部丞俊通・其子瀧口俊綱・海老名源八季定・秦野二郎延景・荻野四郎忠義、安房には・・

現代語訳
 鎌田(正清)は、川原を西に退くと、大将(源義朝)の陣の前まで、敵が追いかけてくるのも悪いだろうと思って、真すぐ下へ逃げたが、敵が引き返すのを見たので、川を筋違いに駆け渡って、「逃て来ました。関東では多くの軍にあっても、これほど攻撃の激しい敵に今まで会ったことはありません。雷などが落ちてくるのは、物の数ではありません」と申すと、義朝は「それは(源為朝が)勇者だと思いこんでいて、怖じけづいているからそうなるのだ。八郎(為朝)は筑紫育ちなので、船の中で遠矢を射てても、歩兵の戦いなどは知らない。馬の上での戦いは、関東の武者にはとうてい及ばない。駆け寄って組め、者ども」と命令されたので、相模国の住人(山内)須藤刑部丞俊通、その子の滝口俊綱、海老名源八季定、秦野次郎延景などをはじめとして、200騎以上で追いかけた。為朝は宝荘厳院の西裏で返し合わせて、火が出るほどに戦った。

 皆が傷を負って引き退いたところに、黒革威の(藍で濃く染めた黒革で威した)鎧、高角の(先端を開かずに高くとがらせた)兜を着け、糟毛なる(灰色に少し白い毛がまじた)馬に乗って、「我は悪七別当なり」と名乗って駆け出していった。
 海老名源八(季定)が駆けあって戦ったが、草摺(腰から上脚部を守る部分)の端を射られてひるんだころを、斎藤別当(実盛)がすぐ寄せたので、悪七別当は太刀を抜いて、斎藤(実盛)の冑の鉢(頭部を覆う部分)を丁と(釘を打つよう)打つ。打たれながらも実盛は、内冑の内側に切っ先を上げて打ち込んだので、あやまたず悪七別当の首は前に落ちた。実盛はこの首を取って、太刀の先に貫き、さしあげて、「(藤原)利仁将軍17代の末裔、武蔵国の住人斎藤別当実盛、今31歳、戦とはこのようにするものだ。我と思う者どもは、かかって来い、かかって来い」と呼ばわった。
原文
『保元物語』(上巻 第十五)━白河殿攻落す事
 鎌田は、河原を酉へひかば、大将の陣の前、敵の追かけんもあしかりなんと思ひて、眞下りに■たりけるが、敵引(つ)返すと見てければ、河をすぢかへに馳わたして、「のがれ参(つ)て候。坂東にて多の軍にあひて候共、これ程軍立はげしき敵にいまだあはず候。いかづちなどの落かゝらんは、事の数にも候はじ」と申ければ、義朝「それは聞ゆる者と思て、おづればこそはさあるらめ。八郎は筑紫そだちにて、船の中にて遠矢を射、歩立などはしらず、馬上の態は、坂東武者には、爭か及ばん。馳ならべてくめや、者共」と下知せられければ、相模國の住人、須藤刑部丞俊通・其子瀧口俊綱・海老名源八季定・秦野次郎延景等を始として、二百餘騎にて追〈つ)懸たり。為朝、法庄巌院の西裏にて返し合て、火出る程ぞ戦たる。

 皆手負て引退処に、黒革威の鎧、高角打〈つ)たる甲を着、糟毛なる馬に乗、悪七別當と名乗(つ〉て懸出たり。
 海老名源八馳合てたたかひけるが、草摺のはづれを射させてひるむ所を、斉藤別當すきまもなく懸よせたれば、悪七別當、太刀を抜て、斉藤が冑の鉢を丁どうつ。うたれながら実盛、内冑へ切前上りに打こみければ、あやまたず悪七別當が頸は前にぞ落たりける。実盛此頸を取(つ)て、太刀のさきにつらぬきさしあげて、「利仁将軍十七代後胤、武蔵國住人、斉藤別當実盛、生年卅一、軍をばかうこそすれ。我と思はん人々は、寄合や寄合や」とぞよばれける。


海老名氏と矢野荘
参考資料1:中世の相生の歴史を理解するために、海老名氏の存在は不可欠です。
 海老名氏を知るには矢野荘の理解が不可欠です。
 『相生の伝説と昔話』(16)矢野荘と藤原定家でも触れましたが、歴史学の専門家は矢野荘を国宝級と位置付けしています。それは古代・中世を通じた荘園史料が系統的で膨大だということです。
 しかし、「忠臣蔵のように一般の人が古代・中世の荘園史料を解読することは難解であるし、多くの人がホームページなどで発信することも困難であろう」と言う人がいます。「宝の山を前にして、なす術もないのが現状である」と語る人も多いのも事実です。
 色々な人が、色々な立場で意見交換することが必要だという意見も頂きました。

参考資料2:そこで、『相生市史』第一巻「海老名氏と寺田氏」の項を参考に、次のようにまとめました。
(1)海老名氏系図
(2━1)矢野荘成立までと(2━2)別名と例名の成立以後の模式図(『郷土のあゆみ』参照)
(3)編年体の略年表
(2)海老名氏系図














海老名
季兼

海老名
源八
季定

上海老名
季 久

上海老名
季 綱

下海老名
季 能
@家季 A季景 ━┳━ C泰季
(例名地頭)
B季直
(浦分地頭)
(1)海老名荻野家系図

季 兼 季定・貞 有 季 季 能 (袈裟王丸)
源親季 @家季 A季重 ・・ B盛重 ・・ C頼保 ・・ D季茂 E瀬重 F景知
左馬允菅原 矢 野 馬 次 郎 盛 重 季 長 季 茂
季 景 景 直 泰 知
(2)海老名家系図

(2━1)矢 野 荘 成 立 ま で
延久3(1071) 大掾秦為辰私領久富保
寄進
嘉保(1094) 播磨守藤原顕秀領 (公文職秦氏)
大治4(1129) 藤原得子
保延2(1136) 美福門院領矢野荘 矢野荘(立券荘合)

(2━2)矢 野 荘 別 名 ・ 例 名 成 立 以 後
本        家        職
仁安2
(1167)
別   名 ━本家職━ 例   名
下司職 地頭職 預所職 本家職 預所職 公文職 地頭職
観喜光院 美福門院 伯耆局 浦    分 例  名 浦  分
久安5
(1149)
八条院
仁安2
(1167)
菅原氏
安元元
(1175)
関東
海老名
藤原
隆信
文治2
(1186)
矢野
盛重
海老名
能季
安嘉門院
建久元
(1190)
海老名
季綱
建久10
(1199)
藤原
隆範
建仁2
(1204)
惟宗氏
建仁3
(1203)
牛窓庄司
範国
元久4
(1207)
下司職 地頭職 預所職 本家職 預所職 公文職 地頭職
室町院
承久3
(1221)
海老名
家季
貞応2
(1223)
海老名氏
文暦2
(1235)
上有智頼保
貞応3
(1244)
海老名
季景
建長3
(1251)
有曽
御前
建長4
(1252)
藤原
為綱
矢野定主
常光
建長5
(1253)
藤原
範親
文永元
(1264)
海老名
季直
文永7
(1270)
藤原
有信
弘安頃
(1278)
寺田太郎
入道
(養子)
弘安2
(1279)
袈裟王丸
(季茂)
弘安6
(1283)
亀山上皇
弘安9
(1286)
永仁頃
(1293)
永仁3
(1295)
雑掌 藤原
範重
永仁5
(1297)
左衛門尉
行方
海老名
泰李
海老名
季景
下司職 地頭職 預所職 本家職 預所職 公文職 地頭職
海老名
為信
永仁7
(1299)
南禅寺 ←━┫ 寺田範家
法念
海老名
冬綱
藤原氏
海老名
季景
嘉元4
(1306)
海老名
季継
正和2
(1313)
後宇多上皇 東寺 ━━┛
(寄進) 海老名
季通
←━━ 寺田範長
正和3
(1314)
海老名
季茂
文保元
(1317)
┗━→
正中元
(1324)
海老名
頼重
(寄進)
元弘3
(1333)
建武元
(1334)
海老名
景知
海老名氏 海老名氏 海老名氏
建武2
(1335)
寺田一族
正平3
(1348)
飽間光泰

(3)編年体の略年表
1061〜1070年
 1069年、後三条天皇は、荘園整理令を出す。
1071〜1080年
 1071年、秦為辰(はたのためとき)は、裁判で久富保の所有権を確保する。
 1075年、秦為辰は、赤穂郡司の地位を利用して、人夫の動員を国衙に申請する。
1091〜1100年
 1094年、。このころ、秦為辰は、播磨守・藤原顕季に久富保を寄進する。
 このころ、久富保は、女房二条殿に譲られる。
1121〜1130年
 1127年、惟宗貞助は、久富保の下司をつとめる。
 1129年、このころ、久富保は、藤原長実の娘・藤原得子にゆずられる。
1131〜1140年
 1136年、藤原得子(後の美福門院)に相伝された久富保は、荘園として公認される。
 1137年、久富保は、矢野荘として立券される。
1141〜1150年
 1141年、皇后・藤原得子は、御願寺・歓喜光院を建立する。
 1149年、この頃、矢野荘は、八条院(父・鳥羽上皇、母・美福門院得子)にゆずられる。
1151〜1160年
 1156年7月11日朝、源義康らの海老名源八季定らは白河殿を攻めました(保元の乱)。
 1159年平治の乱で平清盛が権力を握る。
 1160年、八条院は、矢野荘を例名と別名に分割する。矢野荘の預所職は、美福門院の乳母・伯耆局に与えられる。別名(種友名)43町1反30代を歓喜光院に寄進する。
1161〜1170年
 1167年、菅原某が、所当米等を歓喜光院政所に納めることを条件に別名の下司となる。
1171〜1180年
 1175年、伯耆局は、矢野荘の預所職を孫の右馬権頭藤原隆信に与える。
 1180年8月、源頼朝が挙兵した時、海老名源八の嫡子・季久は、源範頼に従軍する。
1181〜1190年
 1184年、梶原景時は播磨国の守護を任命される。この頃、寺田氏は御家人と主張する。
 1185年、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡する。本補地頭が全国に配置される。
 1186年、下司職・矢野盛重は、地頭・海老名能季(季能)の押妨を源頼朝に訴える。
 1189年、源頼朝の奥州征伐軍に、海老名源八の四男・海老名能季(季能)参軍する。
 1190年、源頼朝が上洛した時、護衛の御家人に海老名季網が従事する。
1191〜1200年
 1192年、源頼朝は、征夷大将軍の地位を与えられ、鎌倉幕府を創設する。
 1199年、梶原景時は播磨国の守護を解任される。
 1199年、矢野荘例名の預所は、藤原隆信の子・隆範に相続される。
1201〜1210年
 1204年、惟宗氏は地頭として活動している。
1221〜1230年
 1221年6月、承久の乱が起こる。地頭の惟宗氏が京方に味方し、久富保・下司職を没収される。海老名家季は、矢野荘例名の地頭職を手に入れる。
 1223年、後高倉上皇は、皇女の安嘉門院(邦子)に八条院領の大部分を譲与する
 1223年、海老名氏は、新補地頭として例名地頭職・浦分地頭職を保有する。
 この頃、那波・佐方の開発が進み、惣荘(若狭野・矢野)と浦分(那波・佐方)が成立する。
1231〜1240年
 1235年、海老名能李の押妨を退けた矢野盛重は、養子・上有智蔵人頼保に別名下司職を譲与する。
1241〜1250年
 1241年、例名の新補地頭・海老名氏と領家とが対立し、寺田氏は領家側で行動する。
 1244年、鎌倉幕府は、海老名家李の嫡男・季景の主張を認める。
1251〜1260年
 1251年、藤原隆範は、矢野荘例名の内那波浦を孫の宇曽御前に譲与する
 1253年、矢野荘例名の預所職は、藤原隆範の子・為綱に相続される。隆範の子・藤原為綱は、惣荘(若狭野・矢野)の領家職を息子範親に譲与する
 1258年、地頭や公文らの検注には人為的ともいえる損亡が記録されている。
 1259年、本家の安嘉門院は、藤原範親の矢野荘例名の領家職を承認する。
1261〜1270年
 1264年、海老名季景は、例名と内浦分地頭職をの三男・季直に譲与する。
 1270年、宇曽御前は、嫡子・有信に那波浦(佐方浦を含む)を譲与する。
1271〜1280年
 1277年、寺田法念の名が矢野荘で初見される。
 1279年、上有智蔵人頼保は、海老名季茂と縁組をむすに、養子・袈裟王丸に別名下司職を譲与する。
1281〜1290年
 1281年、鎌倉幕府は、寺田太郎入道を異国警固番役を任命し、御家人として、矢野荘の重藤名と例名公文を認める。
 1282年、本所の歓喜光院と袈裟王丸の相論について、袈裟王丸に別名下司職を確保する。
 1283年、八条院領は、室町院をへて、亀山上皇(大覚寺党初代)に伝えられる。
 1284年、藤原範親による本家歓喜光院と寺田法念との間に地頭請所が行われる。
 1286年、海老名季景季景は、相摸の地頭給の田・屋敷を、三男・季直に譲与する。
 例名内浦分(久富保と同じ範囲)地頭職も、海老名氏が相伝する。
1291〜1300年
 1295年、矢野荘例名の預所職は、藤原範親の養子・範重に相続される。
 1297年7月、鎌例名雑掌左衛門尉行方と地頭海老名泰李との間で下地中分が行われる。
 承久の乱後に例名の地頭に補任された家李は、息子の季景に地頭職を譲与する。
 季景は、嫡子・泰李に例名(惣荘)の地頭職を、三男・季直に浦分の地頭職を譲与する。
 1300年、亀山上皇は、矢野荘別名を南禅寺に寄進する。
1301〜1310年
 1305年、亀山上皇が没し、後宇多上皇が八条院領を相続する。
 1306年、宇曽御前の嫡子・有信(出家して信覚)は、那波浦の半分と佐方浦を藤原氏女に譲与する。有信は、のこる那波浦半分を藤原得業丸に譲与する。
 1306年、寺田範長の祖父法念(俗名範家)と地頭代海老名季継が相論し、六波羅探題は「重藤名と公文職は、法念の”重代開発私領”である」として判定した。
1311〜1320年
 1313年、後宇多上皇は、矢野荘例名を東寺に寄進し、その結果、東寺は一円支配する。
 1313年、東寺は、藤原氏の預所職を解任し、沙弥道智を預所職に任命する。
 このころ、別名の本家職は、八条院の猶子・春華門院(後鳥羽上皇の娘)が相続する。
 このころ、別名の本家職は、異母兄弟・順徳天皇が相続する。
 1313年、法念の子・範兼は、嫡男・範長に譲与する。分割相続から惣領制へ移行する。
 1314年、寺田法念は、南禅寺領の矢野荘別名に討ち入る。海老名季茂は、別名下司職をめぐって本家の南禅寺と争う。
 1317年、後宇多上皇は、惣荘・浦分・重藤名を東寺に寄進し、現地支配を東寺に委ねる。
 1317年、寺田範長は、公文職を解任されるが、重藤名を支配し続ける。
 1319年、寺田一族は、東寺・有力農民連合群に敗北する。
1321〜1330年
 1324年、海老名季茂(袈裟王丸の元服名)は、嫡子・頼重に別名下司識を譲与する。
1331〜1340年
 1333年、建武の新政で、東寺は、矢野荘例名・那波浦・佐方浦を安堵される。寺田範長は、例名公文職・重藤名が安堵される。
 1334年、海老名季茂の嫡子・頼重は、海老名景知に別名下司識を譲る。

 今回で「相生の伝説」は、無事に全21回分を終えました。ご愛読ありがとうございました。
 丸山末美先生には、伝説にふさわしい荘厳な挿絵を描いていただきました。感謝申し上げます。
 相生にはまだまだ沢山の伝説があります。この「相生の伝説」が、多くの方により様々な視点で、多くの伝説が発信されるきっかけになれば、その任を果たしたことになります。
挿絵:丸山末美
出展:『相生市史』第一巻・第四巻