(15)蘇我馬子と入鹿淵の伝説
 相生市若狭野(わかさの)町入野(いりの)に、大きな池がありました。昔、この池を入鹿(いるか)の淵(ふち)と呼んでいたといいます。今は、鶴亀池といいます。
 入鹿の淵と呼んだのは、この地方が蘇我(さがの)入鹿(いるか)の領地だったからだといわれています。
 蘇我入鹿は、蘇我馬子(うまこ)の孫です。
 相生市矢野(やの)町小河(おうご)には蘇我馬子をまつったという宇麻志(うまし)神社があります。

 『赤穂郡誌』によれば、宇麻志神社について、「小河村にある。宇麻志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのみこと)を祀(まつ)る村社です」と記録されています。

 「宇麻志神社の祭神は宇麻志阿斯訶備(あしかび)比古遅神(ひこじのかみ)です。元は宇麻子神社と言い、祭神は蘇我馬子でした。後に、馬子をはばかって宇麻志と改称したといいます。

 『播州小河の方言』によれば、次のような記録があります。氏神(うじがみ)の境内には、舞台があり、特に榊(さかき)や上土井(かみどい)地区の舞台が評判でした。演題では、『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』は、小河の氏神が「馬子大明神」だということで、小河では上演しなかったといいます。

 先祖である将監(しょうげん)光庵(みついほ)というのは古代の人です。大臣(おおおみ)の蘇我馬子に光庵という家臣がいました。馬子と光庵主従が小河にやって来た時に、主人の馬子が亡くなってしまいました。そのため、将監光庵は、この地に住むようになりました。そこで、将監光庵は、地名の小河を姓として、村の祖となったというのです。
 その後、主人の馬子の菩提(ぼだい)を弔(とむら)うために、髪を切って、庵(いおり)を結びました。そして光庵禅師(ぜんじ)と号するようになりました。息子がいて、将監に光庵の名を譲り、庵寺を代々相続したといいます。
相生市矢野町小河
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宇馬志神社(矢野町)
 下記の系図を見ると、聖徳太子の妃・刀自古郎女(とじこのいらつめ)は、馬子の娘であり、入鹿の叔母です。
 聖徳太子の父用明天皇は、馬子の姉妹・堅塩姫(きたしひめ)の皇子です。
 聖徳太子の祖父欽明天皇の妃は、馬子の姉妹・小姉君(おあねぎみ)です。
 聖徳太子の妃は、馬子の姪・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)です。

敏達天皇
||━━ 竹田皇子
欽明天皇 推古天皇 菟道貝蛸皇女
  || ||━ 用明天皇 ||
|| 堅塩姫 ||━━ 聖 徳 太 子
||━ ━━━ 穴穂部間人皇女 ||
小姉君 ||
蘇我稲目 馬 子 ━━━ 蝦夷━入鹿 ||
━━━━━ 刀自古郎女

参考資料1:多くの伝説は、高野聖などがある史跡を高貴な著名人と因縁つける貴人伝説という形式で誕生しています。
 蘇我馬子や入鹿に関する史料を探してみました。
 
 まず、蘇我入鹿です。
 入鹿淵の池(鶴亀の池)については、『例名実検取帳案』(1299年)に「イルカフチノ池ノクヒ」、『那波浦地頭軍忠状』(1336年)に「領内の■(魚+孚)淵に於て度々野伏と合戦」とあります。
 『播磨国赤穂郡坂越神戸両郷解』(793)年に「坂越郷刀祢 従八位下 川内入鹿」とあります。

参考資料2:次に蘇我馬子です。
 宇麻志神社の絵馬として、小林久之助氏(磐座神社宮司)の御表示があります。
 社名、宇麻志神社、以前は馬子大明神
 祭神、宇麻志阿斯訶備比古遅神、以前は蘇我馬子
 由緒、當社は元、馬子神社と呼び、蘇我馬子を祀った。明治維新後、神代の宇麻志阿斯訶備比古遅神呼名相通ずるを以て招聘奉斎する。
 享保年間の棟札によれば此の神社元来紀州小河の里から三濃山に飛来光明四方に輝く。後小河當設林下川に遷り享保年間現地に奉祀する。

 小林久之助氏の「宇麻志神社御表示」によると、元は馬子(うまし)神社と呼んで蘇我馬子を祀っていたが、明治になって、宇麻志(うまし)阿斯訶備比古遅神と呼び名が同じなので招聘したとあります。

 しかし、倉野憲司氏は、『古事記』の宇摩志阿斯訶備比古遅神の意味は、「立派な葦の芽の男の意味で、国土の成長力を神格化したものである」としています。
 宇摩志は立派なという意味です。馬子(うまし)は人名です。宇麻志(うまし)と音が似ていても、内容が違います。

参考資料3:『古事記』原文(岩波古典文学大系『古事記』)
 天地初めて発(ひら)けし時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。此の三柱の神は、並獨神と成り坐して、身を隠したまひき。、
 次に国稚く浮きし脂の如くして久羅下那州多陀用弊流時、葦牙の如く萌え騰る物に因りて成れる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神。次に天之常立神。此の二柱の神も亦、獨神と成り坐して、身を隠したまひき。
  上の件の五柱の神は、別天つ神。
 次に成れる神の名は、國之常立神。(略)

参考資料4:石田武著『私説相生野史━落穂拾遺集』には、次のような記述があります。
 『播州赤穂郡祭礼式大略』には「小川(河)村大避大明神是ハ非ナリ馬子ノ社ナリ」(小河村大避大明神というのは間違いで本当は蘇我馬子の社である)とあるのをみると、宇麻志神社は宝暦の頃は大避神社と称していたことになり、飯尾勝緒の論により「馬子の社」ということから「宇麻志(馬子)」と改称したものか、或いは藤江忠廉が誤って大避神社と記した、何れかのものであろうが、何れにしても蘇我馬子とする根拠は見当たらず伝承も消えている。
 「馬」は鉱山系用語で「間歩」に通じることから「鉱石を切り出す所」となり、「子」はコとして「処」の意味をあらわす。此の宇麻志神社に近接して採鉱跡があり、之を護る神と考えられなくもない。むしろ金山彦系の荒神を祀っていたことも考えられる。

 『播州赤穂郡祭礼式大略』には以前、宇麻志神社を大避神社と称していたとあります。
 大避神社は秦河勝を祭神として、赤穂市坂越など千種川沿いに多数見られます。千種川沿いには渡来系の秦氏が居住しており、その地域には大避神社が創建されています。

 秦河勝といえば、矢野町には三本卒塔婆(忠犬伝説)があります。
 同じく、矢野町には瓜生の羅漢石仏の伝説があります。

 『赤穂郡志』には次のような記録があります。
 敏達天皇の時代、恵便が高麗の国より日本にやって来ました。その頃日本では仏教を崇拝する者がいなかったので、僧侶を敬う人もいませんでした。そこで恵便は還俗して矢野庄にひっそりと隠れ住んでいました。
 そんな時に、蘇我馬子は、敏達天皇に言上して百済より石像の弥勒を輸し石川氏の屋敷の側に造った創殿に安置しました。
 しかし、これに奉仕し香花を供する僧侶もいなかったので、司馬達に命じて四方に僧侶を探していると、播磨に比丘(戒を受けた男)ニ似た者がいると聞き、恵便を招聘して給仕させました。

 直接ではありませんが、江戸時代には、瓜生の羅漢石仏と恵便、恵便と日本の仏教、蘇我馬子の存在が知られていたことが分かります。蘇我馬子は、仏教を通して、聖徳太子や秦河勝とも深い関係にありました。

 用明天皇2(587)年、蘇我馬子は、排仏派の物部守屋との戦いで誓願を立て、戦勝後、飛鳥の真神原に法興寺(後の飛鳥寺)を建立しました。日本最古の本格的仏教寺院です。
 推古天皇元(593年)年、聖徳太子は、摂政となり、馬子と共に推古天皇を補佐しました。
 同年、蘇我馬子側についた聖徳太子は、物部氏との戦いで誓願を立て、戦勝後、摂津国難波に四天王寺を建立しました。
 推古天皇2(594)年、聖徳太子は、仏教興隆の詔を出しました。
 推古天皇11(603)年、聖徳太子が「この尊像を拝む者はいるか」と問うと、秦河勝が名乗り出て、蜂岡寺(後の広隆寺)を建てました。ここには国宝第1号の弥勒菩薩像が安置されています。

参考資料5:瓜生の羅漢石仏と三本卒塔婆
 曰く瓜生村亥ノ方位ニ巌窟アリ中ニ石像ノ大聖釈迦牟尼佛ヲ中尊トシ左右ニ丈珠普資ノ二菩薩及ヒ十六羅漢如意輪観世音菩薩アリ垂跡ハ弘法大師ノ心願ヲ顕サン為メニ此尊容ヲ刻ミタリ即チ教法弘通ノ廣恩ヲ報セントテ僧都恵便ヲシテ之ヲ作ラシメシ霊像ナリ時ハ人皇三十一代敏達天皇ノ御字恵便高麗ノ國ヨリ来朝シタリ當時本邦沸教ヲ信奉スルモノナケレハ従テ沙門ヲ敬スルモノナシ是故ニ恵便潜ニ俗流ニ混シテ矢野庄ニ幽居シケリ時ニ蘇我馬子帝ニ奏シテ百済ヨリ石像ノ弥勒ヲ輸シ石川某ノ第側ノ創殿ニ安置セリ然レトモ之ニ奉仕シ香花ヲ供スルモノナケレハ司馬達ト云フ者ニ命シテ四方ニ抄門ヲ索メシメシニ播磨ニ比丘ニ似タル者アリトキヽ、之ヲ招聘シテ給仕ヲナサシメタリ某夜石像ヲ彫刻シテ釈迦三尊十六ノ聖衆及救世菩薩ヲ作レリ抑此地ハ赤松義村カ感状山城搦手ノ間道ニ沿ヒタレハ峨々タル断崕ニアル嵩窟ニ見千古ノ登場タルニ愕カシメ其涓々タル水ハ常ニ看経ノ声ニ應シ粛々タル風ハ永ク念仏ト共ニ和セリ香姻横ル處燭光滴り煢々トシテアリ轉タ寶國ヲ忻慕セシム亦以テ郡ノ一霊場タルヲ知ルへキナリ
 三本卒塔婆ハ能下村ノ正北ニ在り昔時秦河勝此地ニ遊猟セリ大蛇アリ路傍ニ蟠曲ス河勝之ヲ知ラス将ニ近カントス率ユル所ノ二犬先ヅ之ヲ知り河勝ノ裳ヲ噛ミ之ヲ止メ各奮テ蛇ニ當リ相咬噛スルコト良久クシテ一蛇二大輿ニ仆レタリ河勝悲哀ニ堪ヘス猟弓ヲ三折シテ卒堵婆ヲ作り三者ヲ三段ニ埋メテ之ヲ建
テタリト云々或云フ此事河勝ニアラス普通ノ猟夫ナリト二説孰カ是ナルヲ知ラス又河勝遊猟ノ際携帯セシ
土製ニ似タル分福茶釜アリ火気沸騰スルトキ其音数丁外ニ響ク寶ニ奇ト謂フへシ今三濃山ニ保存セリ
(『赤穂郡志』)

参考資料6:高田十郎著『播州小河の方言』には、「妹背山は、小河の氏神が『馬子大明神』で、入鹿大臣の滅亡を演ずることをきらわれるから、小河ではできないことになっている」とあります。
 蘇我馬子と聖徳太子との良好な関係は先述しました。
 しかし、その孫の蘇我入鹿は、秦河勝を赤穂に流罪にしたり、大化の改新の時に中大兄皇子(後の天智天皇)らによって暗殺されたりして、悪の代表者にされてしまいました。
 しかし、小河では、蘇我入鹿が暗殺される『妹背山婦女庭訓』を上演しないということは、蘇我氏に対する崇敬の念があるという証拠です。
 石田武説も貴重な示唆ですが、相生市の若狭野・矢野には、蘇我馬子や入鹿にかかわる伝説が残っています。

 最近、地元の大道哲男さんから、「馬子宮」の木製額の写真のご提示頂きました。今も宇麻志神社で大切に保管されています。
 やはり、相生市小河でも、貴人伝説の系譜を確認できました。

参考資料7:『妹背山婦女庭訓』
 蘇我馬子の子・蝦夷が白い牡鹿の血を妻に飲ませて産ませた子が蘇我入鹿です。そのため、入鹿は超人的な力を持っています。やがて、入鹿は宮中を占拠します。
 芝六は、超人的な蘇我入鹿を殺すには、爪黒の鹿の血と嫉妬深い女の血が必要と教えられ、爪黒の鹿を射殺します。
 杉酒屋のお三輪は、隣家の園原求女(藤原淡海)に恋をしています。しかし、求女には橘姫(入鹿の娘)がいました。橘姫は園原求女に、父・蘇我入鹿の宝剣を奪うことを約束します。
 嫉妬に狂ったお三輪は、その場に乱入しようとして、猟師の鱶七(藤原淡海家臣・金輪五郎)に刺されました。こうして嫉妬に狂う女の生血を手に入れました。
 その結果、蘇我入鹿は討たれ、平和が訪れました。

参考資料8:若狭野尋常高等小学校編『郷土読本』を参考にしました。
参考資料9:小河出身の学者・高田十郎著『光葉氏のこと』(1925年)
 抑先祖将監光庵というは古王代の人也。馬子大臣の家臣光庵と申す也。馬子主従当所に来りたまう所、君馬子発したまうなり。それより此地に住す。故に小河と之を姓名として、即ち村の祖と成りたまい、君の為に菩提を弔う、剃髪して庵を結ぶ、即ち光庵禅師と号す。其子男有りて将監に光庵の名を譲り、庵寺代々相続。
参考資料10:藤江忠廉『赤穂郡誌』(1747年)
 宇麻志神社 小河村ニアリ。宇麻志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのみこと)ヲ祀リ村社ニ列ス
参考資料11:『播州赤穂郡祭礼式大略』(1757年)は、飯尾勝緒が赤穂郡志の欠漏を補記した史料です。
挿絵:丸山末美
出展:『相生市史』第二巻・『郷土のあゆみ』