(12)神功(じんぐう)皇后と三島大神(おおかみ)
 相生市にも、神功皇后の伝説があります。
 那波(なば)の浦(港)には、神功(じんぐう)皇后(こうごう)の祈願(きがん)により、三島大神(みしまのおおかみ)が鎮座(ちんざ)している三島神社があります。
 神功皇后が新羅(しらぎ)国を攻撃する時、那波の入江の那波浦は、中国鎮護(ちんご)の水軍の要港でした。神功皇后の第三陣先鋒(せんぽう)の小千(おち)宿禰(すくね)三並の兵団がこの那波浦に停泊(ていはく)しました。
 神功皇后は、小千宿禰三並に命じて、箆島(のしま)にある箭竹(やだけ)を採(と)らせました。また、神功皇后は、神托(しんたく)と勅命(ちょくめい)により、赤地向鼻(字甲崎)に三島大神を分霊(ぶんれい)しました。
 この時、神功皇后は、奉幣使(ほうへいし)として笠志直命を、大三島大神の本社(愛媛県)に参向(さんこう)させました。この船の着いたところが大浦(相生浦)でした。

 この伝説は、どのようは背景で誕生したのでしょうか。
 この那波浦の沖合を、水軍に守られた大和(やまと)の船団が西へ西へと進んでいました。大和朝廷の命に従わぬ新羅国を攻撃するために、仲哀(ちゅうあい)天皇みずから兵を率いて筑紫(つくし)国(福岡県)に向かっているということでした。
 大和から筑紫国へ水軍を移動中に、軍港であった那波浦に立ち寄ったことになります。
 しかし、仲哀天皇が亡くなったので、神功皇后は懐妊中にもかかわらず、新羅国を攻撃しました。海を渡る天皇軍の神威におそれた新羅軍は戦わずして服属したといいます。
 神功皇后は、筑紫国へ凱旋し、無事男の子を産みました。のちの応神(おうじん)天皇です。

 神功皇后の新羅攻撃の話は、『古事記』(こじき)や『日本書紀』(にほんしょき)にある伝説であって、史実とは考えられません。
 しかし、海とふかい関係をもつ神功皇后伝説と相生が結びついているのは興味ぶかいところです。
 さらに、この伝説と海との関係を考えてみましょう。
相生市旭字箆島
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箆島(のしま)
 『播磨国風土記』(『はりまのくにのふどき』)によれば、神功皇后の寄港地として旧揖保郡(いぼぐん)に属する字須伎津(魚吹津)、宇頭川(揖保川)、伊都(御津町伊都)、御津(岩見港)、萩原の里(揖保町萩原)などが点々と並んでいます。那波浦もその一例だったのでしょう。
 瀬戸内海には、4〜5世紀ころの五色塚古墳(神戸市垂水区)・輿塚古墳(揖保郡御津町)・みかんのへた山古墳(赤穂市坂越)など豪族の古墳が分布しています。
 同じく、五〜六世紀ころの壷根突崎古墳群・野瀬中丸古墳群が相生に分布しています。
 以上のことから、大和朝廷に服属した瀬戸内海の海人集団の活躍が想像されます。
 瀬戸内海の海人集団を率いたのが、伊予国(愛媛県)の越智(小千)族の三並です。また、モンゴルの来襲(1281年)の時に活躍した河野通有は、三並の子孫になります。彼らは、大三島神社の大山積大神を崇拝しています。

 『播磨鑑』(はりまかがみ)によれば、赤穂郡尾崎八幡宮について、次のような記録があります。
 昔、神功皇后が異賊を退治して、都に帰る時のことです。赤穂郡御崎山の傍らへ御船を寄せられた跡があります。
 別な説として、応神天皇が筑紫より帝都に帰る時、この地によりました。今、この村の民家の東の畑の中に明神木という所があります。その地にちなんで、後世に、神社を立てたといいます。
 地元の尾崎には、次のような話が残っています。
 平地はもと海でした。神功皇后が朝鮮遠征の途次、海中に突き出た大盤石(のっと岩)に船をつないだと言われています。
 また、応神天皇が筑紫より都へ帰還の時、この海岸(明神木)に船をつないだと伝えられています。

参考資料1:『古事記』・『日本書紀』などにみる神功皇后と瀬戸内海
 『古事記』・『日本書紀』には、神功皇后が瀬戸内海を通って九州に行った記述はありません。神功皇后が九州から大和に帰る時、瀬戸内海から難波に直行したという記述はあります。
 『古事記』は、和銅5(712)年に編纂されました。神功皇后が往還に瀬戸内海を使ったという記述はありません。(史料と現代語訳あり)
 『播磨風土記』は、霊亀元(715)年以前に編纂されました。神功皇后の名前(大帯日賣命・息長滞日貴命)と地名が記述されています。(史料あり)
 『日本書紀』は、養老4(720)年に完成しました。神功皇后の大和へ帰還する時、瀬戸内海から難波に直行したという記述はあります。(史料と現代語訳あり)
 『播磨鑑』は、宝暦12(1762)年頃に編纂されました。赤穂の尾崎八幡神社の伝説が残っています。(史料と現代語訳あり)
 『古事記』・『播磨風土記』・『日本書紀』・『播磨鑑』などの話を使用する場合、原文から引用すべきです。以下に、原文(読み下し)と現代語訳を掲載しました。原文を大いに活用して下さい。

参考資料2:神功皇后を実在の人物として、卑弥呼とする説があります。
 神功皇后は、『日本書紀』では170年に生まれて、269年に亡くなっています。
 卑弥呼については、日本の記録がないので、中国・朝鮮の史書を採用します。
 『三国史記』の「新羅本紀」には、「二十年 夏五月 倭女王卑彌乎遣使来聘」とあります。この「二十年」とは173年のことです。倭の女王卑弥呼が新羅に遣使したとあります。
 『梁書』には、「漢の霊帝の光和中、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子卑弥呼を立てて王となす」とあります。「光和中」とは178〜184年の間のことです。皆で卑弥呼を倭国の女王にしました。卑弥呼の性格は、『魏志倭人伝』と同じで、卑弥呼には夫がなく、鬼道(シャーマニズム)に通じている。彼女の託宣により、男の弟が政治を補佐したとあります。
 『魏志倭人伝』には、「景初二年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、『今汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し』とあります。この「景初二(三)年」とは239年のことです。魏の王は、卑弥呼を親魏倭王とし、金印紫綬を送り、銅鏡100枚を贈りました。
 『梁書』には、「正始中、卑彌呼死」とあります。「正始中」とは240〜248年のことです。卑弥呼が死んだとあります。

(1)神功皇后の時代と卑弥呼の時代は非常に接近しています。
(2)神功皇后も神がかりするし、卑弥呼も鬼道を事とするとあります。共にシャーマニズムに長じている点で共通しています。
(3)初代神武天皇〜15代応神天皇までの享年を調べてみました。()内が享年です。
 10代までは、100歳以上が7人で、生まれた時の父天皇の年齢を調べると60歳以上が6人です。
 11代垂仁天皇(139歳)、12代景行天皇(143歳)、13代成務天皇(107歳)、14代仲哀天皇(53歳)、15代応神天皇(111歳)。まさに神話時代の天皇です。
(4)21代雄略天皇〜25代武烈天皇までの享年を調べました。()内が享年です。
 21代雄略天皇(62歳)、22代清寧天皇(41歳)、23代顕宗天皇(38歳)、24代仁賢天皇(50歳)、25代武烈天皇(18歳)。まさに人間としての天皇です。
(5)以上から分かるように、神功皇后は神話に登場する人物です。卑弥呼は史料で証明された実在の人物です。

参考資料3:神功皇后伝説はいつ成立したのでしょうか。
 記紀(『古事』と『日本書』)の基礎となったのが『旧辞』と『帝紀』です。『旧辞』(682年)には、「神功皇后伝説はすでに記録されていた」といいます。
 大阪市立大名誉教授の直木孝次郎氏は、筑紫国の橿日宮(香椎宮)は、記紀には登場するが、『八幡愚童訓』『八幡宇佐宮御託宣集』には、香椎宮は神亀元(724)年に創建されていると指摘しています。『日本書紀』の4年後になります。
 つまり、縁起物では、「神社の創建年代は実際より古く伝えられるのが一般的なのに、香椎宮の場合、記紀との整合性さえ省みられていない」「何の記録もないという事実は、宮や神功皇后伝説そのものが当時存在せず、後世に挿入されたものであることを暗示しているのではないか」と指摘しています。
 「神功皇后は斉明天皇がモデルである」と直木氏は説明しています。

参考資料4:大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)と相生の三島神社
 大山祇神社は、愛媛県今治市大三島町にあり、全国に分布(1万余社)する三島神社の総本社です。山の神・海の神・戦いの神として尊崇を集め、平安時代から日本総鎮守の称号を与えられています。
 大山祇神は、伊邪那岐神・伊邪那美神が神産みをした時の子です。大山祇神の子孫である小千命(おちのみこと)がこの地に築いたと言われています。それ以後、ここは水軍の拠点となりました。その小千命が「御手植した大楠」が国の天然記念物指定されています。
 弘安4(1281)年、小千命の子孫である河野通有は、蒙古襲来により出兵する時、大山祗神社に参籠して、「御手植の大楠」に兜を掛けたという言い伝えが残っています。

 那波浦の箆島(のしま)は、野島とか竹島とも書かれた小島ですが、この島に三島大神を勧進して、三島神社が創建されたといいます。この箆島は、今は地続きとなっています。
 神功皇后と三島大神の伝説では、有名な神功皇后伝説が前面に出てきていますが、瀬戸内海と漁業を考えると、大山祇神社(三島神社の総本社)と水軍の小千(越智)族・河野氏の影響があるといえます。

参考資料5:『正統那波史』の『三並記』「荒神山三島社」は、西崎介史郎氏によって昭和22(1947)年に編集されました。

史料
『正統那波史』の『三並記』「荒神山三島社」
 赤穂郡那波浦ニハ神功皇后ノ御祈願ニ依テ鎮座ノ三島大神アリ。
 神功皇后ノ新羅国ヲ征シ給フ時、那波ノ入江ノ那波浦ハ中国鎮護ノ水師軍ノ要港ニシテ、第三陣先鋒ノ将帥、小千(おち)宿禰三並ヲ以テ箭竹(やだけ)ヲ採ラシメ、神託ト勅命ヲ承ケテ赤地向ヒ鼻ニ、三島大神ノ御分霊ヲ鎮祭セシメラル。
 奉幣使トシテ笠志直命ヲ参向セシメラル。右御渡船ノ着キクル所ヲ大浦トイフ。

参考資料5:『播磨国風土記』は、霊亀元(715)年以前に編纂された我国最古の地誌です。

史料
『播磨国風土記』「揖保郡」
宇須伎津 右、宇須伎と名づくる所以は、大帯日賣命、韓国を平げむとして度り行でましし時、御船、宇頭川の泊に宿りたまひき。この泊より伊都に度り行でましし時、忽ち逆風に遭ひて、え進み行きたまはずして、船越より御船を越すに、船はなほもえ進まざりき。すなはち百姓を追ひ發して、御船を引かしめき。ここに、一の女人ありて、資(つかいびと)に己が眞子を上らむとして、江に堕ちき。故、字須伎(うすく)と号く。
*字須伎(うすく)とは、あわて者の意味という。
宇頭川 宇頭川と称ふ所以は、宇須伎津の西の方に、放水の淵あり。故、宇頭川と号く。即ち是は、大帯日賣命、御船を宿てたまひし泊なり。
伊都の村 伊都と称ふ所以は、御船の水手等のいひしく、「何時か此の見ゆるところに到らむ」といひき。故、伊都といふ。
御津 息長帯日貴命、御船を宿てたまひし泊なり。故、御津と号く。
萩原の里 土は中の中なり。右、萩原と名づくる所以は、息長滞日貴命、韓国より還り上りましし時、御船、此の村に宿りたまひき。一夜の間に、萩一根生ひき。高さ一丈ばかりなり。仍りて萩原と名づく。

 『播磨鑑』は、播磨国の印南郡平津村の医者・平野庸脩が宝暦12(1762)年頃に作成した江戸時代の地誌です。

史料
『播磨鑑』
  昔、神后宮異賊退治有て帰洛の御時、赤穂郡御崎山の傍へ御船をよせられし御跡有。(中略)
 一説二日ク、上代応神天皇筑紫ヨリ帝都二赴ク時此地ニヨル。今此村民家ノ東ノ畠中に明神木トイフ
  所有り。其地二依テ後世社ヲ立ツトイフ。

参考資料2:『古事記』の「神功皇后」の現代語訳
 仲哀天皇の妻の神功皇后には、神が乗りうつりました。その時、夫の仲哀天皇は、筑紫国の橿日宮にいて、熊襲国を撃とうとしていました。神の託宣を得るために琴を弾かせて、建内宿禰が清庭にいて、神の託宣を請いました。この時、神功皇后に神が乗りうつり、「西の方に国があって、金銀をはじめ、びっくりするような珍しい様々な宝がある。われ、今、その国を帰服させて与えよう」と託宣しました。
 仲哀天皇は、これは偽りをいう神であるとして、託宣に使う琴を押しのけ、黙って座っていました。
 そこで、その神は大変怒って、「この国は、汝が統治する国ではない。汝は、黄泉(死)の国に行くべし」と託宣がありました。まもなく、琴の音が聞こえなくなり、火を挙げて見ると、仲哀天皇は亡くなっていました。
 「これは天照大~の御心である。底筒男・中筒男・上筒男の住吉の三神(墨江大~)である。本当に西の方の国を求めるならば、神に捧げる白絹を奉り、我が魂を船の上に乗せて、眞木の灰を瓠(ひょうたん)に入れ、平たい食器をたくさん作りて、すべてを海に散らし浮かべて渡海せよ」と託宣がありました。
 託宣のごとく、準備をして、渡海していた時、大小の魚が軍船を負うようにして海を渡りました。風も追い風となりました。船に寄せた波は、新羅の国に押し寄せ、国の半分を水浸しにしました。
 その国の主は、恐れをなして、「これからは天皇の命ずるままに、毎年、貢物をする」と約束しました。神功皇后は、その地の占領を示す杖を新羅の国主の門に突き立て、底筒男・中筒男・上筒男の荒ぶる御魂を新羅を守護する神として祭り、鎮座せしめて、筑紫に帰って来ました。
 新羅遠征の仕事が終わる前に、妊娠中の御子が生まれそうになりました。(そこで石を裳の腰に纏いて落ち着かせ)筑紫国に帰って、御子は生まれました。そこで御子の生まれた地を宇美(うみ)といいます。
 神功皇后は、大和に帰る時、自分や新皇子に対する忠誠心が疑わしいと思って、棺を乗せた船を用意しました。そして、御子をその船に乗せて、「皇子は死んでしまった」と言いふらし、大和に帰って来ました。
 仲哀天皇は、52歳で亡くなりました。
 神功皇后は、101歳で亡くなりました。
 以上、見たように、『古事記』には、瀬戸内海の往還の描写がありません。

史料
『古事記』の「神功皇后」
 其の大后息長帶日賣命(神功皇后)は、當時~(そのかみ)を歸せたまひき。故、(仲哀)天皇筑紫の訶志比(かしひ)宮に坐しまして、熊曾國を撃たむとしたまひし時、天皇御琴を控(ひ)かして、建内宿禰大臣沙庭に居て、~の命を請ひき。是に大后~を歸せたまひて、言ヘへ覺し詔にたまひしく、「西の方に國有り、金銀を本と爲て、目の炎耀(かがや)く種種(くさぐさ)の珍しき寶、多(さわ)に其の國に在り。吾(われ)今其の國を歸(よ)せ賜はむ」とのりたまひき。
 爾に天皇(中略)、詐(いつわり)を爲す~と謂ひて、御琴を押し退けて控きたまわず、默して坐しき。
 爾に其の~、大いに忿(いか)りて詔りたまひしく、「凡そ茲の天の下は、汝の知らすべき國に非ず。汝は一道(ひとみにち)に向ひたまへ」とのりたまひき。
 (中略)未幾久(いくだ)あらずして、御琴の音聞えざりき。即ち火を擧げて見れば、既に崩(かむあが)りたまひぬ。
 (中略)「是は天照大~の御心ぞ。亦底筒男(そこつつのを)、中筒男、上筒男の三柱の大~ぞ。今寔(まこと)に其の國を求めむと思ほさば、(中略)悉に幣帛(みてぐら)を奉り、我が御魂(みたま)を船の上に坐(ま)せて、眞木の灰を瓠(ひさご)に納(い)れ、亦箸及比羅傳(はしまたひらで)を多(さは)に作りて、皆皆大海に散らし浮かべて度(わた)りますべし」とのりたまひき。
 故、備(つぶ)さにヘへ覺したまひし如くにして、軍を整へ船雙(な)めて度(わたり)り幸(い)でましし時、海原の魚、大き小さきを問はず、悉に御船を負ひて渡りき。爾に順風(おひかぜ)大(いた)く起りて、御船浪の從(まにま)にゆきき。故、其の御船の波瀾(なみ)、新羅(しらぎ)の國に押し騰(あが)りて、既に國半(なから)到りき。是に其の國王、畏惶(かしこみ)みて奏言(まを)しけらく、今より以後(のち)は、天皇の命(みこと)の隨(まにま)に、御馬甘(みまかひ)と爲(し)て、年毎に船雙(な)めて、船腹(ふなばら)乾(ほ)さず(中略)」
 爾に其の御杖を、新羅の國主の門(かど)に衝(つ)き立て、即ち墨江(すみのえの)大~の荒御魂(あらみたま)を、國守ります~と為して祭り鎭めて還り渡りたまひき。
 故、其の政(まつりごと)未だ竟(を)へざりし間に、其の懷妊(はら)みたまふが産(あ)れまさむとしき。(中略)筑紫國に渡りまして、其の御子は阿禮坐(あれま)しつ。故、其の御子の生(あ)れましし地を號(なづ)けて宇美(うみ)と謂ふ。(中略)
 是に息長帶日賣命、倭に還り上(のぼ)ります時、人の心疑はしきに因りて、喪船(もふね)を一つ具(そな)へて、御子を其の喪船に載せて、先づ「御子は既に崩りましぬ」と言ひ漏さしめたまひき。如此(かく)上(のぼ)り幸(い)でます(中略)
 凡そ帶中津日子天皇の御年、伍拾(いそじあまり)貳歳(ふたとせ) 【壬戌の年の六月十一日に崩りましき】 御陵は在河内惠賀之長江也【皇后御年一百歳崩 葬于狭城楯列陵也】

参考資料2:『日本書紀』巻第8・第9の現代語訳です。編年体で書かれています。
149(成務29)年、足仲彦(たらしながつひこの)天皇は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の次男として誕生しました。
170(成務40)年、気長足姫命が誕生しました。
178(成務48)年、足仲彦天皇が皇太子になりました(31歳)。
190(成務60)年、成務天皇(日本武尊の弟)が亡くなりました。
192(仲哀01)年1月11日、足仲彦天皇が即位し、仲哀天皇となりました。
193(仲哀02)年1月11日、仲哀天皇は、気長足姫命を皇后(神功皇后)とする。
 3月15日、仲哀天皇が南海道を巡行中、熊襲が反乱を起こして税金を納めなくなりました。そこで、天皇は熊襲を討とうとして、徳勒津(和歌山市新在家)より船で穴門(山口県豊浦郡)に向かいました。すぐに使いを敦賀に送って、神功皇后に「穴門で逢おう」と命じました。
 6月、天皇は豊浦の港に泊まりました。皇后は敦賀を発って渟田門(福井県三方郡)に着いて、船の上で食事しました。
 9月、天皇は宮殿を穴門に建てました。これが穴門豊浦宮です。
199(仲哀08)年正月、天皇は筑紫の橿日宮(福岡市香椎)に移りました。
 9月5日、天皇は群臣に熊襲を討つべきかを諮りました。この時、神功皇后が神がかりし、この国以上の宝物がある国を討つべきだと託宣します。しかし、天皇は、託宣による神の言葉に疑いを持ちます。
200(仲哀09)年2月6日、橿日宮で、天皇は急に病気になり、次の日に亡くなります。神の言葉を用いなかったことが原因です。そこで、皇后は、神の教えに従って財宝の国を討つことにしました。
 10月3日、皇后は和珥津(対馬上県郡鰐浦)を出発しました。その時、飛廉(風の神)は風を吹き、陽侯(波の神)は浪を挙げ、海の中の大きな魚たちは海上に浮いてきて船の運航を助けました。すなわち、大きな追い風が吹き、帆舶は波に任せればよい。楫をこぐ者も苦労せず、新羅の国に到着しました。新羅の王はこれを見て、恐れおののき、身をおく所もありませんでした。皇后は持っていた矛を新羅王の門に立て、降伏を促しました。新羅王は、「毎年、絹などを積んだ船80艘を日本に貢ぐ」と約束しました。皇后は、新羅より帰国しました。
 12月14日、筑紫で、皇后の皇子・誉田別尊が誕生しました。産んだ処を「ミウミノトコロ」という所から、この地を宇美(現在の宇美八幡)といいます。
201(神功摂政01)年2月、皇后は、群臣を率いて穴門豊浦宮に移りました。仲哀天皇の遺骸を取り納めて、海より、大和に向かいました。時に、香坂(かごさか)王・忍熊(おしくま)王は、天皇の死、皇后の新羅征討、皇子の誕生を知り、密議を謀り、天皇の墓を造ると偽って、播磨に行って明石(兵庫県明石市)に山稜を作りことにしました。淡路島の石を運んで作ると偽って、その船に兵を乗せて、皇后が来るのを待っていました。時に、皇后は、忍熊王らの作戦を知り、武内宿禰に皇子・誉田別尊を抱いて、迂回して、南海より紀伊水門((和歌山の港)に行かせました。皇后の乗った船は、直行して難波を目指しました。
269(神功摂政69)年4月17日、皇太后が稚桜(わかさくら)宮で亡くなりました(100歳)。
270(応神元)年1月1日、皇子・誉田別尊が即位して、応神天皇となりました。
310(応神41)年2月15日、応神天皇が亡くなりました(101歳)。
 以上、見たように、『日本書紀』の瀬戸内海には、往は仲哀天皇、還は神功皇后の描写があります。

史料
日本書紀 巻第八
 足仲彦(たらしながつひこの)天皇(すめらみこと) 仲哀(ちゅうあい)天皇(てんのう)
 足仲彦天皇は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の第二子なり。(中略)天皇、容姿(みかほ)端正(きらぎら)し。身長十尺。
 稚足彦(わかたらしひこの)天皇(成務天皇)の四十八年に、立ちて太子(ひつぎのみこ)と為(な)りたまふ。時に年三十一。
 六十年に、(成務)天皇崩(かむあが)りましぬ。

 (仲哀天皇)元年(はじめのとし)の春(はる)正月(むつき)の庚寅(かのえのとら)の朔(ついたち)庚子(かのえね)に、太子(ひつぎのみこ)、即天皇位(あまつひつぎしろしめ)す。

 (仲哀天皇)二年の春正月の甲寅朔甲子に、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)を立てて皇后と為す。
 三月の癸丑の朔丁卯に、天皇、南国(南海道)を巡狩(めぐりみそなは)す。(中略)是の時に当りて、熊襲、叛(そむ)きて朝貢(みつきたてまつ)らず。天皇、是に、熊襲国を討たんとす。則ち徳勒津(ところつ)より発(た)ちて、浮海(みふね)よりして穴門(あなと)に幸(いでま)す。即日(そのひ)に、使を角鹿(つぬが)に遣(つかわ)したまひて、皇后に勅(みことのり)して曰(のたま)はく、「便(すなわ)ち、其の津より発ちたまひて、穴門に逢ひたまへ」とのたまわく。
 夏六月の辛巳の朔庚寅に、天皇、豊浦津(とゆらのつ)に泊りたまふ。且(また)、皇后、角鹿より発ちて行(いでま)して、渟田門(ぬたのみなと)に到りて、船上(みふね)に食(みをし)す。
 秋七月の辛亥の朔乙卯に、皇后、豊浦津に泊りたまふ。
 九月、宮室(みや)を穴門に興(た)てて居(ま)します。是を穴門豊浦宮と謂(もう)す。

 (仲哀天皇)八年の正月の己亥に、儺県(ながあがた)に到りまして、因りて橿日宮(かしひのみや)に居(ま)します。
 秋九月の乙亥の朔己卯に、群臣(まえつきみたち)に詔して、熊襲を討たしむことを議(はか)らしめたまふ。時に、神有(かみま)して、皇后に託りて誨(をし)へまつりて曰(のたま)はく、「天皇、何ぞ熊襲の服(まつろ)はざることを憂へたまふ。(中略)茲の国に愈(まさ)りて宝有る国、(中略)津に向へる国有り・・」とのたまふ。天皇、神の言を聞しめして、疑の情有します。(中略)

 (仲哀天皇)九年の春二月の癸卯の朔丁未に、天皇、忽(たちまち)に痛身(なやみ)たまふこと有りて、明日(くるつひ)崩(かむあが)りましぬ。時に、年五十二。即ち知りぬ、神の言を用ゐたまわずして、早く崩りましぬることを。

史料
『日本書紀』巻第九
 気長足姫尊 神功皇后
 九年の春二月に、足仲彦天皇、筑紫の橿日宮に崩りましぬ。時に皇后、天皇の神の教に従はずして早く崩りたまひしことを傷みて、以為(おもほ)さく、崇る所の神を知りて、財宝の国を求めむと欲す。(中略)
 冬十月の己亥の朔辛丑に、和珥津(わにつ)より発ちたまふ。時に飛廉(かぜのかみ)は風を起し、陽侯(うのかみ)は浪を挙げて、海の中の大魚、悉く浮びて船を扶く。則ち大きなる風順(おいかぜ)に吹きて、帆舶波に随ふ。かじ楫(かい)を労せず、便ち新羅に到る。(中略)新羅の王、是に、戦戦栗栗(おじわなな)き、せ身無所(せむすべなし)。(中略) 即ち皇后の所杖(つ)ける矛(みほこ)を以て、新羅の王の門に樹てり。(中略)新羅の王、常に八十船の調を以て日本国(わがみかど)に貢(たてまつ)る。(中間)皇后、新羅より還りたまふ。
 十二月の戊戌の朔辛亥に誉田(ほむたの)天皇を筑紫に生(あ)れたまふ。故、時の人、其の産処(みうみのところ)を号けて宇瀰(うみ)と曰ふ。(中略)

 爰に新羅を伐ちたまふ明年(神功摂政元年)の春二月に、皇后、群卿(まへつきみたち)及(およ)び百寮(つかさつかさ)を領(ひき)ゐて、穴門豊浦宮に移りたまふ。即ち天皇の喪(もがり)を収めて、海路よりして京(みやこ)に向(いでま)す。時にかご坂王・忍熊(おしくま)王、天皇が崩(かむあが)りましぬ、亦皇后西を征ちたまひ、并(あは)せて皇子新に生まれませりと聞ききて、密に謀りて(中略)乃ち詳(いつわ)りて、天皇の為に陵を作るまねして、播磨に詣(いた)りて山陵を赤石に興(た)つ。仍りて船を編みて淡路嶋にわたして、其の嶋の石を運びて造る。則ち人毎に兵(つはもの)を取らしめて、皇后を待つ。(中略)
 時に皇后、忍熊王師(いくさ)を起こして待てりと聞こしめして、武内宿禰に命(みことおほ)せて、皇子を懐きて、横(よこしま)に南海より出でて、紀伊水門(みなと)に泊らしむ。皇后の船、直に難波を指す。(中略)

 六十九年の夏四月の辛酉の朔丁丑に、皇太后、稚桜宮に崩りましぬ。時に年一百歳(ももとせ)。
挿絵:丸山末美
出展:『相生市史』第四巻・『郷土のあゆみ』