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北 部 (矢野・若狭野方面)

    ハイキングコース          文化財見学コース



文化財の見学コース順

@瓜生羅漢石仏 → A福田眉仙筆塚 → B大ムクノキ → Cコヤスノキ叢林 → D犬塚五輪塔 → E若狭野古墳 → F浅野陣屋跡 → G和泉式部旧跡碑



感状山城・三濃山ハイキングコース(所要時間約3時間40分)

1.感状山城登山口 → 2.感状山城跡 → 3.三濃山 → 4.研修センター駐車場



文化財見学コースのご紹介

@瓜生羅漢石仏
 羅漢石仏は岩窟の中に安置されており、釈y如来像を中心に脇侍として、文殊、普賢の両菩薩と16羅漢像が左右に並んでいます。由来は欽明天皇の時代、高句麗の僧である恵便、恵聡が後世衆生に石仏を刻んだといわれています。

A福田眉仙筆塚
 明治8年(1875年)9月、矢野町瓜生に生れ、明治期から昭和にかけて活躍した日本画家の福田眉仙の筆塚です。上京後、日本美術院に入り、岡倉天心、橋本雅邦等に師事しました。その後、3年間、中国大陸をめぐり、その成果を支那大観、支那三十畫巻として発表。晩年には湯川秀樹博士の紹介でコロンビア大学に中国三十絵巻を寄贈しました。昭和38年(1963年)芦屋市六麓荘の自宅で急逝。昭和40年(1965年)に相生郷土有志の手で、羅漢渓公園に眉仙筆塚を設立。題字は光専寺赤松真雄住職の筆で、生前使用していた筆十本と墨が塚に収められています。

B矢野の大ムクノキ
 この大ムクノキは、根回り4.8m、高さ約15mに達し、樹齢推定600年以上といわれ、昔この地に荒神社の森があって、その御神木として大切に保護されたため残ったといわれています。

C磐座神社のコヤスノ木叢林
 このコヤスノ木は、トベラ科の常緑低木で
 葉は長いだ円形で光沢があり、小枝の先に集まってついています。
 五月ごろ花が咲き秋には実をつけます。西播地方と岡山県東部に生育しています。

D犬塚五輪塔
 秦河勝の狩猟の際、大蛇に襲われそうになった公を助けた忠犬の供養塔といわれています。

E若狭野古墳
 7世紀ごろにつくられた方墳で横穴式石室、外護列石が現存しています。古墳からは壺、甕などの須恵器片、土師器片が出土しています。

F浅野陣屋跡
 初代領主は浅野長恒で、寛文13年(1672年)若狭野三千石を貰い分家しました。7代長発までほとんど江戸に居住し、万延元年(1860年)に若狭野陣屋に引き揚げて住居しました。陣屋建物は現在の若狭野須賀神社付近にあり、現在残されている建物は、元札座であった法界庵です。

G和泉式部旧跡碑
 平安時代(794年〜1185年)に有名な歌人であった和泉式部が、事情により自分の子どもである小式部を京都五条に捨ててしまいます。捨てられた小式部は、京都に来ていた若狭野の長者 五郎太夫に拾われ、播磨国で五郎太夫に養育されます。後に、わが子を求めて雨内に来た和泉式部は、降りだした雨をしのいで、栗の木にたたずみ、歌を詠んだといわれています。その後、五郎太夫の家に宿を頼み、小式部と再会し、京都へ連れて帰ったと伝えられています。。若狭野町雨内にあるこの旧跡碑は、和泉式部が栗の木に雨宿りしたといわれる場所に建てられています。


感状山城・三濃山ハイキングコース
2 感状山城跡
 建武3年(1336)新田義貞の播州攻めの時に、赤松則祐がこの城にたてこもって戦功をたて、足利尊氏から感状をあたえられたので、以来、感状山城と呼ぶようになったといわれています。

3 三濃山
貞観6年(864年)秦内麻呂が祖先の秦河勝の遺跡を訪ね、この地に観音寺を建立したといわれており、また、弘法大師(空海)が矢野庄が霊地であると考え、堂宇を建立したのが求福求寺の始まりといわれています。その後、源義家の信仰によって大繁盛しましたが、保元平氏の乱によって諸堂宇を焼失し、現在は観音堂のみ残っています。


 ━ MEMO ━